米津玄師が主題歌を歌う意味
「#MeToo」運動が起こり、「わきまえない女たち」というワードも生まれ、女性の立場を変えていこうとする動きが活況だ。
米津玄師の歌う主題歌『さよーなら またいつか!』は、ガラスの天井を思わせる空に向って悔しさを吐き出しながら、自分の空を手に入れようと喉笛をかき鳴らす。その声と、シシヤマザキの制作した、法衣を着た寅子の動きに合わせて花が咲き乱れ舞い、彼女とともに、時代も仕事も異なる女性たちが祈りを込めるように踊るアニメーションは、まさに、いまを物語っている。
ドラマの序盤は、女性ばかりが苦悩していて、男性は、優秀だが女性に理解のない無礼な者たちか、猪爪家の父・直言(岡部たかし)、直道(上川周作)、居候の優三(仲野太賀)のように、理解はあるが、どこか頼りない人ばかりと極端で、この時代、男性にも尊敬に値する優秀な人格者もいたはず(この時代に生きてないからわからないけれど)という気持ちにもなる。そんなときにも『さよーなら またいつか!』である。
米津の歌詞の「わたし」は、女性の私ではなく、男女関係なく使用する「私」にも聞こえる。それが、女性の物語の主題歌を米津が担当した意味のようにも思えるのだ。
『虎に翼』は、既得権益を享受していない、主流のレールに乗れず割を食ってきた私たちの物語なのだ。タイトルバックにも、本編の町並みにも、いまの社会に居心地悪い思いをしているらしき者たちが描かれ、その姿に「あれは私だ」と仮託できる。
SNS時代の視聴者と「朝ドラ」
「わたくしごと」としてーーこれがいまの時代のキーワードだ。社会問題を人任せにしないで、わたくしごととして考え、コミットしていくことが求められている。ネットの普及によって、それがやりやすくなったはずだった。
その好例として、SNSでドラマの共感や情報を共有できるようになった。誰もがフラットな土俵で語り合える時代が来た。が、それには一長一短あって、ポジティブな言葉もネガティブな言葉も同じように発せられ広がる。それによって物語の本質が埋もれてしまうこともある。
筆者は2017年に『みんなの朝ドラ』(講談社現代新書)、2022年に『ネットと朝ドラ』(Real Sound Collection)を上梓したが、『みんなの~』では女性の自己実現を切り口に考えられた朝ドラが、『ネット~』を書いたときには、テーマ性などよりも、SNS映えするアイデアを消費して楽しむものに変化しているように感じ、それが作品を痩せ細らせるのではないかと危惧を覚えていた。
最近は史実との相違の指摘し合いが盛んである。ドラマをきっかけに知識を得られること自体は悪くないのだが、本来、期待されたのは、史実と違う描写の是非ではなく、深い議論を交わすことだ。おそらく寅子だったら、なぜ史実を変えたのか、その理由を追求し、異なる意見をもつ人と話し合っていくだろう。知識とは議論するうえでの材料に過ぎない。
『虎に翼』には、よく学ぶこと、気になったことはとことん議論することの喜びがある。リーガルものとは、本来のSNSのよき使い方のできる格好の題材だったのである。これまでの朝ドラは主人公がとんとん拍子に結果を手に入れ、そこまでの過程が省略されていると感じることをよく指摘されてきた。リーガルものは結論を導く過程が醍醐味。つまり、待ちに待ったドラマなのである。その点も新しさだ。