常日頃から教訓を垂れていた家康

幸いなことに家康は、大の教え好きであった。重臣たちにはことあるごとに、政治のあり方について諭していた。たとえば、「徳川四天王」として有名な本多忠勝は、主君に教えてもらったことを子孫に書き残している。その『本多平八郎忠勝聞書』を意訳して紹介しよう。

「私は、若年から家康公のお側に仕え、幸い気に入られてずっと勤めていたので、まったく学問をする暇がなかった。ただ、文盲であるけれど、不断に主君の金言を聞いてきた。だから家を整え、国を治めることは、少しは心得ているつもりだ」

そう述べ、家康の教訓を次のように書き留めている。

「家康公は、人は天道(天地自然の摂理で至高の存在)に従って生きることが大事だとおっしゃった。天道は、われを生かしてこのような立場にしてくれているのだから、それをおろそかにしては天罰があたる。また、よい部下を選べとも言われた。よいとは心がよいことで、男ぶりではない。物言少なく、心正直にして、主人のためを第一に考えて諫言する、それが最上の者である。

さらに、気に入らないことでも家臣の『異見』(異なる意見)は聞くようにしろ。そうしなければ、次第に人が離れ、自分一人きりになり、家は没落してしまうだろうとおっしゃった。

家康公は、おのれ一個の我を立てないようにしろといさめてくださった。たとえ、お前が中国の聖人君子・堯舜ぎょうしゅんのような知恵を持っていても、自分の心を恃んではならない。大国を治める者は一人ですべてを見聞できるわけではない。だから正直なものを五人、十人と目付にして統治しろと言われた。

大名が高禄を取っているのは、身を楽にするためではない。上に立つ者は、国を守り、民百姓を安んじさせるために存在すると語られた」

このように家康は、近侍する重臣に常日頃から教訓を垂れていたのである。

徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(画像=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

「さすがは親子なり!」と称賛された秀忠のひと言

さらに家康は忠勝に、「本を読むことは身を正しくするためで、心ここにあらずの状態で読んでも何の役にもたたない。一文を読んでは心に刻み、一言聞いてはそのまま実行に移すつもりで読みなさい」と読書の方法まで教えている。

重臣に対してさえこんなふうだから、跡継ぎの秀忠は、さらに家康から細々と教えを受けていたに違いない。

こんな話がある。

大坂夏の陣のとき、家康は河内星田に本陣を敷き、秀忠は砂の地を陣とした。決戦直前、家康の陣中で、謀反をたくらむ大名があるという風説が流れた。これを耳にした家康は、にわかに立ち上がって「そんな不届き者がいるのに、このわしが気づかぬはずがあろうか!」と叫び、周囲を睨みまわした。

ほぼ同時刻、秀忠の陣中でも同様の噂が流れた。すると、なんと秀忠も急に立ち上がり、家康とまったく同じ言葉を吐いたのである。

「さすがは親子なり!」

そう徳川の家臣たちは感激したというが、これは、秀忠の努力の賜物だった。