「決して遅れまい」と臨んだ大坂冬の陣
このため、腹を立てた家康は秀忠に会わなかった。さらにその後、主な重臣たちを集めて、後継者の再選定会議を開いたという。このとき秀忠を推した者は、大久保忠隣ただ一人だったといわれている。家康もずいぶん酷なことをする。けれど、近年、この会議については否定されている。いくらなんでも、さすがに家康もこんなまねはしないだろう。秀忠の面目が丸つぶれになるからだ。
とはいえ、合戦に遅参したことは、秀忠にとって大きな心の傷となったようで、次の戦では決して遅れまいと行動している。ちなみに次の合戦というのは、関ヶ原合戦から十四年後の大坂冬の陣である。
家康は、慶長十九年(1614年)十月一日に諸大名に大坂への出陣命令を発し、自身は十一日に二十万という大軍で駿府を出立し、二十三日に京都の二条城に入った。
このとき江戸城にいた秀忠は、出立に手間取り、家康が二条城に入った日に六万の軍勢を連れてようやく江戸を発している。ただ、その日のうちに神奈川宿に着くと、家康の側近の本多正純に対して「本日、神奈川にまでやってきた。まもなく上洛するから、私が行くまでは開戦を待つよう父上に伝えてほしい。時機を失いたくないのだ」と記した書簡を送っている。
あきらかに関ヶ原合戦がトラウマになっていたのがわかる。
大軍を率いて常識外れのスピードで移動
その後も秀忠は、たびたび正純や藤堂高虎(外様だが家康の側近)に同じ内容の文書を送り、常識外れのスピードで進軍していった。
これを知った家康は「大軍なのに、無理な行軍をするな」と使いを送っていさめたが、なんと秀忠はこれを黙殺したのだ。
二十九日に東海道の吉田宿に到着した秀忠軍だったが、「御道急がせ給ふほどに、供奉のともがら武具諸調度まで残置て馳走(馬を駆って走った)せり」(『徳川実紀』)という異常な状況になった。さらに、三日前に出立した先鋒隊の伊達政宗軍を追い越しそうになったのである。
十一月一日、そんな秀忠は三河国岡崎で、また家康の書面を受け取った。そこには「大軍を急に押給はば、人馬疲労するのみならず行列混乱し、其上軽率の御挙動、大体を失ひ給ふべし。かまへて緩々と押れて、寛大持重の体を失い給ふまじ」(『徳川実紀』)と書かれてあった。
そこで、さすがに秀忠も歩みを緩め、十日になって京都の伏見城に入ったのである。それにしても、たった十七日間で江戸から京都まで六万の大軍を連れてくるのは、尋常なスピードではなく、遅れてはなるまいという秀忠の焦りがよくわかる。