当時としてはきわめて遅い初婚

それから4年がたった第13回「進むべき道」(3月31日放送)。父の藤原為時(岸谷五朗)が官職を失ったままで、貧しい暮らしを強いられているまひろだが、生活のために縁談を勧められても、まったく乗り気にならない。代わりに働き口を探すが、父に官職がないためどこも受け入れてくれない。

そんな噂を聞いた倫子が土御門邸で働かないかと救いの手を伸ばすが、道長が婿入りした家では働けないと思い、「もう決まりました」とウソをついて断ってしまう。

しかも、その場で倫子から、道長が文箱に大事にしまっていたという手紙を見せられるが、それはなんと、まひろが書き送った陶淵明の詩だった。自分の手紙を道長が大切にとっていてくれたという思いから、まひろの心はますます道長から離れなくなってしまう。

この第13回で描かれているのは正暦元年(990)ごろで、事実、紫式部はそれから8年以上をへた長徳4年(998)の冬まで結婚しない。紫式部の生年はわかっていないが、初婚当時、26歳前後だったと想定する研究者が多い。

現代の感覚では、26歳といえば結婚年齢としてはむしろ早いくらいだが、「これは当時としてはきわめて遅い初婚で、二度目の結婚という説もあるくらいである」と倉本一宏氏は記す(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。

土佐光起筆「紫式部図」(画像=石山寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

20も年の離れた初婚相手

では、紫式部はなぜ晩婚だったのか。ドラマのように道長への思いを断ち切れなかったからなのか。その回答を記す前に、紫式部の結婚がどんなものだったのか眺めておきたい。

その相手は「光る君へ」でたびたび紫式部の家、すなわち藤原為時邸を訪ねてくる藤原宣孝(佐々木蔵之介)だった。為時と宣孝は曽祖父が同じという遠縁で、二人のあいだにはドラマ同様、交流があった可能性が高い。

伊井春樹氏は「寛和元年(九八五)正月十八日には内裏で『賭弓』(正月行事、天皇隣席のもとでの弓の競射)が催され、『小右記』に宣孝と為時の名が記されるのをみると、二人は旧知の間柄でもあるのだろう。為時よりも年下ながら、すでに三〇もすぎた歳であった」と書いている(『紫式部の実像』朝日選書)。

そんな宣孝から紫式部のもとに、求婚の書状が届いたのは、長徳3年(997)の正月ごろで、ということは、前年からそういう話があったものと思われる。