「大空の弟」が果たした役割

「いつも○○○部隊 ○○方面 ○○隊 ○○○ばかりなり ○○○ではわからない」

笠置さんの亡き弟・亀井八郎さんの手紙から着想して服部良一さんが書いた実際のものから少しアレンジされてはいるが、極めて近いかたちで再現されたこの歌詞。「○○」という伏せ字の歌い上げに、検閲をくぐり抜けるため、また家族に心配をかけまいとして亀のことばかり手紙に書いてよこした六郎の思いが立ち上がってくる。

「姉やん、姉やん」と、いつもスズ子の後をついてきた六郎が、香川で出生の秘密を知って打ちひしがれるスズ子を抱き止めた六郎が、スズ子に「ほんまの家族や」とまっすぐに言った六郎が、伏せ字で記号化され、まるで戦闘機や戦艦のネジのひとつのように扱われ、紙切れ一枚で「死にました」とだけ報された。

「大空の弟」には、六郎のように戦死した兵士たち、スズ子や梅吉のように戦争で家族を失った日本中の人たちの思いが詰まっていた。さらにこの曲の驚くべき点は、これも「検閲をくぐり抜けるため」に、表向きは「銃後の護りに順従し、戦地での弟の活躍を祈る姉」という“パッケージ”になっているところだ。その中に、戦争に対する強い怒りとやるせなさを注ぎ込んだ服部良一さんの才力と、それを物語に有機的に組み込んだスタッフの手腕に唸る。

また、「大空の弟」は、スズ子と梅吉がゆっくりと六郎の死を受け入れる、グリーフケアの役割をも果たしていた。

「気持ちの説明」をしないドラマ

「大空の弟」に象徴されるように、『ブギウギ』はひとつの事象、ひとつのシーンがいくつもの役割を果たし、何通りにも解釈できる作りになっている。直接的な台詞で人物が「気持ちの説明」をしないし、見方をひとつに決めない。百人いれば百通りの見方、感じ方があって、それを良しとしている。

そして「歌」とは元来そういうものだ。『ブギウギ』は、見る人、聴く人の感性や心の在処と響き合って完成するという、エンターテインメントの真髄を届けようとしていたのではないだろうか。無論、それが成立するのも、練られた作劇による「物語の構築」という前提があってこそだが。

このドラマにはいつも、いろんな人のいろんな感情、いろんな事情が「ごちゃ混ぜ」の状態で置かれていた。喜びと哀しみ、生と死、愛と業(ごう)、人生の素晴らしさと皮肉。相反する2つのものが共存する。人間の愚かさ、情けなさを否定しない。「割り切れない矛盾」を無理やり解決せずに、「そのままあるもの」として存在させる。

人間の感情はそんなに単純じゃない、引き出しの仕切りの中に、ひとつひとつ仕分けて入れられるようなものじゃないと、このドラマは絶えず言っているような気がした。

こうした“混濁”も『ブギウギ』独特の味わいであり、「タッカタッカ」というシャッフルビートに“濁った”ジャズコードを乗せて奏でる「ブギ」に似ているではないか。脚本の足立氏、音楽の服部氏をはじめとするスタッフの総意だという「カラッとした作劇」にもまた「ブギ」っぽさがあった。