笠置がなついてくるから「照れてしまう」と書いたエノケン

笠置の自伝に寄せた「生一本きいっぽんの熱燗」というタイトルの文では「生一本」という言葉を連発、「舞台と楽屋の裏表がない」とほめ、こう記している。

「今まで私がつき合った女優さんや歌手の多くは、女優らしさという、ある気どりを持って舞台へ立つので、どうも嘘の姿になって、こっちとしっくり合わない。ところが笠置君はそうではない。生一本でぶつかってくる。だから私も生一本で取り組むことが出来る」
「私にとっていちばんつき合いよい女優さんといえば、日本中で彼女をおいて他にない」
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』1948年、北斗出版社)

また、「謙譲けんじょうで苦労人肌」「義理堅くて几帳面」「気のよくまわる女性」とし、「歳末の忙しいさなかにミカンの箱を抱えてお歳暮まわりをしていた」エピソードまで紹介しているように、服部と同じく笠置の人間性を好み、大いに評価していたことがわかる。

「『榎本先生、榎本先生』といって、大いになついてくれているが、先生なんていうスタアは笠置君ひとりだ。こっちの方で照れてしまう」(寄稿より)という一節からわかるように、二人は名コンビであり、役者としては師匠と弟子、そして互いに尊敬しあっていた仲だった。

写真=プレジデントオンライン編集部所有
映画『お染久松』(1949年)の笠置シヅ子(右)と榎本健一(左)より

苦労人の喜劇王・榎本健一の生い立ちとは…

エノケンが生まれたのは、明治37年(1904)。大正3年(1914)生まれの笠置より10歳上で、ギョロッとした大きな目、ガラガラ声を特徴とし、古川ロッパと並ぶ昭和を代表する喜劇役者として知られる。

自伝『喜劇こそわが命』(日本図書センター)によると、小学校を卒業後、父が入学手続きした中学には一度も通わず、家業の煎餅せんべい屋を手伝うなどしていたが、尾上松之助の活動写真にあこがれ、弟子入り志願で大阪へ。しかし、そこで尾上松之助には居留守を使われ、弟子入り失敗。東京に戻ると親に勘当されるが、父の死後には一時家業の煎餅屋を継ぐ。

それでも俳優になりたいという思いから、オペラの根岸歌劇団幹部・柳田貞一に弟子入り。当初はコーラス部員を務めていたが、大正12年(1923)、柳田作曲による「猿蟹合戦」の子猿役で評判となったのが、喜劇役者としての第一歩だった。

しかし、同年の関東大震災で浅草の興行街は全滅。オペラブームが終わった後に、サイレント映画俳優となる。さらに軽演劇集団カジノフォーリーに所属、歌と踊りを駆使した部隊が人気を博し、昭和18年(1943)にエノケン一座を設立。一躍、人気喜劇俳優の道を歩んで行く。