「足利義昭=バカ殿」の設定は浅すぎる

ワースト5位は、「キャラクターの輪郭を明瞭にした結果、浅薄に描かれてしまった人物たち」で、例として3人を挙げたい。

最初に室町幕府最後の将軍、足利義昭(古田新太)。上洛した徳川家康(松本潤)が対面する場面ではじめて登場したが、昼間から酒に酔った様子でゲップをしながら千鳥足で現れ、話しながら居眠りをはじめてしまった。絵に描いたような「バカ殿」として描かれたのである。

実際には、義昭が空虚なバカ殿だったとは考えられない。自身の上洛を自身が主導し、信長の助けは借りたが、信長とて当初は義昭に供奉し、天下(当時は京都を中心とした五畿内をそう呼んだ)の再興に協力するという姿勢だった。その後も義昭は、京都やその周辺における争いを裁定し、軍事面も仕切った。信長に担がれただけの人物でないことは、史料からもまちがいない。

足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)(写真=目黒書店/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

ところが、「どうする家康」では、家康の重臣の石川数正(松重豊)に、義昭に供奉する信長(岡田准一)の胸の内をこう語らせた。「神輿は軽いほうがいいからでは? おだててさえおけば言いなりになるからでは?」。だが、これでは信長と義昭とのあいだの緊迫した駆け引きなどは、みな切り捨てられ、歴史描写が浅くなる。

歴史を動かすのは私怨ではない

石川数正のセリフを引用したが、このとき数正は、「浅井殿はそのすべてを見抜いたのかもしれません」とも語った。これは、信長の妹の市(北川景子)を娶った近江(滋賀県)の浅井長政(大貫勇輔)は、義昭を担いで覇道を突き進む信長の魂胆を見抜いた、という意味である。長政は、誠実な好青年であるがゆえに信長に違和感を募らせ、自分が信じる正義を優先したように描かれたのだ。

そんな長政像には、義昭像と同様の違和感を覚えた。長政は義兄の信長を裏切って越前(福井県)の朝倉義景の側につき、信長を窮地に陥れた。しかし、「誠実」や「正義」がその動機ではない。

長政は信長と同盟を結んだが、それ以前から朝倉氏に従属していた。織田と朝倉が対立した以上、どちらかを選ばなければないが、こうした場合、戦国大名に求められたのは、領国の存立にとってどちらが有利か、という冷徹な判断であった。義侠心を持ちこむ場面ではないのである。

明智光秀(酒向芳)も残念だった。信長に媚び、ライバルに冷たい小人物として描かれたが、人の目を見るのが厳しい信長が、そんな人物をナンバー2にまで抜擢したはずがあるまい。

光秀は家康の饗応役を務めた際、家康が鯉の臭いを気にしたため、信長の逆鱗げきりんに触れて役を外され、信長と家康を深く恨んだ。それが本能寺の変の動機だとされた。

このように「どうする家康」では、歴史が動く動機やきっかけが、いつも私怨など個人の思いだった。しかし、そのために歴史のダイナミズムが、どれだけ矮小わいしょう化されたことだろう。