蔵書は4万5000冊、今も高知市の植物園に残る

もちろん、これは牧野が経済的に何ひとつ不自由することのなかった、若い日の話である。ところが牧野は、これを一生を通じて初志貫徹してしまった。牧野は自ら、「牧野は百円の金を五十円に使ったと笑われる事がある」と回想するように、本を買うことにケチケチしていなかった。同じ本でも「版」が違えば買いそろえることがあった。

こうして牧野の蔵書は、和漢洋に及び4万5000冊にも達した。博物学の歴史に詳しい上野益三は牧野の蔵書について、「牧野先生は植物標本と同時に、書物の蒐集でもその右に出るものはなく、その万事徹底せねばやまぬ性格は、植物と名のつく本は、どんなつまらぬものでも集めた。……牧野先生の徹底癖は同一の著書でも版式のちがうものはみな集めた。ちょうど、植物の標本をつくるのに、多数個体を集めて、個体変異を確かめようとしたのと同じ行きかたである」(『博物学史散歩』)と紹介している。

これらの蔵書は幸いなことに、牧野の没後に遺族から高知県に寄贈され、高知市の県立牧野植物園のなかに「牧野文庫」として保存、公開されている。いま牧野文庫を拝見させてもらうと、なかには「牧野様」と書かれた古本屋からの請求伝票が添付された本も散見できる。この本代を支払うのに、どんな苦労が隠されていたかを思うと胸が熱くなる。

出典=『牧野植物図鑑の謎』(ちくま文庫)

「ズボラすぎて東大では追い出し運動が」と新聞に書かれる

一方で財産差し押さえをされるような経済的な苦況にありながら、他方では本を買うことに金を惜しまず、「吝財者は植学者たるを得ず」を実行できたのは、やはりスエコザサに象徴される家族の理解と協力があったればこそであろう。

ところが、昭和2年、牧野の札幌滞在中、札幌の新聞(『北海タイムス』昭和2年11月25日付)に驚くべき記事が掲載された(図表1)。

「東大の牧野氏 追だしの陰謀 ズボラな性格が禍い問題は更に紛糾する」という見出しで、「(牧野は)植物学界に対して多くの貢をしているが、とかくズボラな氏の性格が禍いを為して、学校へ出ることは二カ月に一度くらい、学生や教授に迷惑を懸けることは一度や二度ならず……、理学部の数名の教授が秘かに氏を追い出さんと陰謀を巡らし……」と書かれている。