築山殿のような正室には側室や庶子の認知決定権があった

さらには家康あるいは戦国時代史を専門にする研究者によって、あらたな研究もすすめられ、一般書として刊行された。特筆されるものとしては、誕生から今川家時代、武田家との抗争状況、正妻・築山殿(ドラマの役名は「瀬名」)をめぐる状況、今川氏真との関係、秀吉死去から将軍任官までの政治状況、が挙げられる。

それらは多く、放送を機に刊行されたものになるので、その内容が今作のドラマの内容に反映されることは少なかったが、そのなかでも築山殿をめぐる状況については、随所に取り込まれていることは特筆したい。実は築山殿に関しては私の研究(『家康の正妻 築山殿』平凡社新書)成果が多く反映されていた。

築山殿の肖像(図版=西来院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

私は近年、戦国大名家の女性の政治的地位や役割についての研究を進めていて、そのなかで今作の放送を機に築山殿についても追究した。そこでは、戦国大名家の正妻(ドラマでは「正室」と表現)は、当主の「側室」(正確には別妻および妾)や子どもの認知権を有していたことを指摘した。ドラマではそれを受けるようにして、築山殿が家康の「側室」を選定したり、「側室」となることを承認していなかった者を追放したことなどが取り上げられていた。

大河の築山殿の描き方は大胆だったが、研究者としても納得

また家康と築山殿との関係についても、江戸時代以来、不仲と認識されていたが、築山屋敷での別居は、築山殿のほうが身分が高かったため同居しなかったこと、築山殿は死去まで、家康の正妻としての権力を有していたこと、築山殿の死去は、家康による殺害ではなく、自害と推定されることなどを指摘したが、ドラマではそれを、ドラマ展開に見合うかたちで取り込んでいるように思えた。それらの内容は、これまでの通説的な理解とは大きく異なるものであったことからすると、大胆な取り組みであったといえるかもしれないが、私にとっては納得のいく内容であった。

家康の生涯は、三河の一国衆にすぎない立場から、「天下人」にまでなり、かつその後二百数十年にわたる戦争のない平和な社会を築き上げるものであった。1983年の「徳川家康」は、早くから戦争のない平和な社会の構築を志向し、それを不屈の精神で実現していく内容であった。それが当時における一般的な家康像でもあった。