しかし、そのぶん三河への対応は不充分なものにならざるを得なかった。影響力が低下するのは必至だった。

これに好機とみたのが信長だったのではないか。それまで今川氏の傘下に入っていた領主たちを調略し、三河への影響力を強めようと目論む。今川氏のバックアップに期待できなくなった領主たちは動揺し、織田方に走る者も少なくなかった。

そんななか、三河刈谷城主の水野信元の仲介により、家康と信長は和睦する運びとなる。永禄四年二月のことであった。信元は家康の母於大の方の兄であるから、伯父にあたる。

信長からすると、それまで交戦状態にあった家康との和睦には隣国美濃の平定戦に専念できるメリットがあった。家康にも尾張の動向を気にせず、念願の三河平定に専念できるメリットがあった。

こうして、家康は今川氏と断交する方針、つまり信長との同盟に舵を切ったのである。桶狭間の戦いから約九カ月後のことだった。

信長の後ろ盾を得て三河平定に乗り出す

信長との同盟締結から二カ月後の四月に、家康は東三河の牛久保城に対する攻撃を開始した。牛久保城は当時今川氏に属する牧野氏の城であり、この攻撃とは今川氏とは断交する意思を示すものに他ならなかった。

後に牧野氏は家康に服属し、家臣として忠節を尽くす。だが、当時は三河の有力領主という点で両者に上下関係はなかった。敵対していた。

これを皮切りに、家康は今川氏に属する領主との戦いに突入していく。

安藤優一郎『徳川家康「関東国替え」の真実』(有隣堂)

家康の離反に呼応し、同じく今川氏と断交する領主も次々と現れた。こうして、三河は引き続き今川氏に属する領主と、家康のように反今川の旗幟を鮮明にした領主に分かれ、内乱状態に陥る。いわゆる「三州錯乱」であった。

家康が離反したことを知った氏真は激怒する。「岡崎逆心」という言葉を使って憤慨しているが、今川氏からすれば厚遇した家康に裏切られたという気持ちが非常に強かったことをこの言葉は示している。期待して恩寵を与えた分だけ、裏切られた気持ちはより強かったのだ。

以後、家康は今川方の領主を服属させ、あるは三河から駆逐することで、念願の三河平定を実現していくのであった。

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