シングルマザーと非正規中年男性、どちらがより弱者か
ほとんどの人が弱者である社会をイメージしてみよう。弱者の「弱さ」にも強弱がある。強いところと、弱いところがある。
たとえばシングルマザーは、とても弱い存在だ。厚生労働省の2016年の調査だと、母子世帯の母親の平均年収は約200万円だという。働いている人全体の平均年収の半分以下である。支援も行き届かず、困っている人はとても多い。
では、シングルマザーよりももっと弱い弱者はいるだろうか? インターネットのスラングで「キモくて金のないオッサン」というのがある。略して「KKO」という。年収200万円以下の非正規雇用の人は日本に1000万人近くいて「アンダークラス」などと呼ばれているが、このアンダークラスの中でも中年の男性はとびきりの弱者だ。彼らをシングルマザーと比べてみたらどうだろうか。
もちろん、ひとりひとりによってさまざまなケースがあるので、単純に「どちらがより弱者か」などと比較するのは、倫理的にもよろしくない。しかし、それでも強いて比較対象として見ると、シングルマザーには一点だけKKOに優る部分がある。それは「女性だから、助けの手を差し伸べてもらいやすい」という点だ。
「だれが弱者か」を決めつけるのは問題
KKOは、容易に助けの手を差し伸べてもらえない。なぜなら「キモい」からである。ボランティアなど女性の支援者がうかつに手を差し伸べたりすれば、勘違いして襲ってくることだってあるかもしれない。だれからも見棄てられてしまう可能性が高いのが、KKOなのである。しかし社会は「彼らは男性だから」という理由で弱者として扱うことをしない。
「だれが弱者で、だれが弱者ではない」と決めつけることの空しさが、ここにはある。
女性とトランスジェンダーのどちらが弱者なのか? という議論も、複雑だ。
しばらく前からくすぶっている「トランスジェンダー女性はスポーツ競技の女子種目に参加していいのか?」「トランスジェンダー女性は、女子トイレや女性用の浴場を使っていいのか?」という議論がある。トランスジェンダー女性というのは、もとは男性だったが「自分は女性である」と自認している人たちのことを言う。
ここで厄介なのは、性別適合手術を受けていないトランスジェンダー女性でも、これらの権利を認めるべきだという訴えがあることだ。
トランスジェンダーは弱者である。弱者の権利は保障されなければならない。このロジックで言えば、みずからを女性と自認するトランスジェンダー女性は、女子競技への参加や女子トイレ使用の権利を認められなければならない。
しかしシス女性(性自認と生まれ持った性が一致している女性)からは、反論が出ている。当たり前のことだ。元男性で筋力など運動能力が非常に高いトランス女性が女子競技に出れば、運動能力に劣るシス女性は入賞できなくなってしまう。男性器をつけたままの見知らぬ人といっしょに風呂に入ってもいいと思う女性も多くはないだろう。
このように「どちらが弱者なのか?」という話は、社会のいたるところに点在している。「だれが弱者か」を固定的に決めつけてしまうのは、問題が多いのだ。
かといって、ここで「弱者ランキング」を作成して比較するようなことも、意味はない。そんなランキングは、歪んだヒエラルキー意識を社会に持ち込むだけだからである。トランスジェンダーはある場面では弱者であり、別の場面では強者にもなり得る。そういう理解が最も公正なのではないだろうか。