イギリスで産業革命が起こった時期に日本で孤軍奮闘
源内が活躍したのは江戸中期、西暦でいえば1700年代の後半である。この時代は、西洋でもイギリスの産業革命が緒についたばかり。日本では殖産振興の気運はあっても、肝心の技術革新が起こっていなかった。西洋における産業技術社会の本格的到来は日本の幕末期であり、それが日本に輸入されるのは明治期に入ってからである。つまり源内は時代に約100年先駆けて、科学・技術と国益と産業振興を一本の線につなごうとして、ほとんど孤軍奮闘を余儀なくされたのだった。
そんな源内の生きざまについては、このような評価が行き渡っている。彼はあり余る才能に恵まれながら、それをいたずらに浪費した結果、すべての事業が中途半端に終わった。
一方、親友の杉田玄白は『解体新書』の翻訳という一事に専念し、歴史に残る大業を成し遂げた。源内も対象を一つに絞ってそれに集中していたなら、もっと大きな業績を挙げられたはずだ。そのことは彼自身も自覚していたに違いない。その証拠に晩年、「功ならず名ばかり遂げて年暮れぬ」と自嘲の句を残しているではないか、と。
一方、逆に、源内をいわゆる理系と文系の壁を乗り越えたと賞賛する声もある。理系には一般に理学、工学、医学、農学など、文系には法学文学、社会学、経済学、教育学などの学問分野が含められるが、こうした分類に従えば、本草学(植物学・鉱物学)やからくり(技術)の探究は理系、戯作や俳句に勤しんだのは文系の仕事と分けられるだろう。
江戸の文化創造と活性化に貢献した「先走り」の人生だった
その意味では垣根を取り払ったとも言えるが、源内の時代にはそもそもそんな区別がなかった。そうした区分けが生まれたのは明治以降の日本で、理由は予算に絡む便宜的なものだったというのが定説だが、それが固定化して現代に残っているのである。本来アマチュアの彼らは理系だろうと文系だろうと興味の赴くまま自由に学び、研究し、創作していった。国学者として名を成した本居宣長は医学者でもあった。同じく国学の平田篤胤も医学者であり、自然科学にも深い関心を示した。その意味では源内だけが突出していたわけではない。
この点は同時代の西洋でも同じだった。
つまり、科学が偉大なアマチュアのものだった時代に、東洋の島国にも源内という飛び切りの異才がいたというにすぎない。
それやこれや含めて、源内が52年の生涯において、持ち前の好奇心と知的関心を十全に開花させ、科学から文芸にまたがる数々の分野で先駆的業績を上げたこと、それによって士族から町人にまで刺激を与え、江戸の文化創造と活性化に大きな役割を果たしたことは間違いない。それはまさに、彼にしか成しえない「先走り」の人生だったと言えるだろう。