ノーベル文学賞をとりやすい作品とは
そもそも、学校教育がここまでひろまったのは、「大量生産の時代」がおとずれたからです。おなじ工場ではたらく人間どうし、ことばが通じなかったり、ちがう単位でものをはかったりしていてはこまります。そこで、思考やコミュニケーションの共通基盤を誰もが持てるように、義務教育が行われるようになったのです。
ときどき、「校則には意味がないものが多すぎる。制服のスカートの襞なんて、どうして全員がおなじ数にする必要があるのか」といった意見をのべる人がいます。けれども校則というのは、「意味がないから価値がある」存在です。「じぶんは納得できないが、規則だからとりあえずしたがっておく」という心性を育てるのに、「意味のない校則」はうってつけなのです。こうしたメンタリティは、「大量生産の時代」の労働者には欠かせないものでした。
けれども、知識を一方的に伝達したり、「意味のない校則」に生徒を従わせたりするタイプの学校教育は、すでに耐用年数が過ぎています。
冒頭にふれた大塚英志の評論では、『海辺のカフカ』の主人公のありかたが取りあげられていました。大塚が問題にしていた「僕には生きるということの意味がよくわからないんだ」という主人公の問いかけには、実は、主人公の母と思われる佐伯さんが答えています。
「『絵を見なさい』と彼女は静かな声でいう。『私がそうしたのと同じように、いつも絵を見るのよ』」
ここで「絵」といわれているのは、佐伯さんが若い頃に死に別れた恋人の、少年時代の姿を描いた『海辺のカフカ』という題の油絵です。「めざすべきゴール」をどこかに設定するのではなく、問題に行きあたるごとに、「あちら側」を体験してじぶんを問いなおす――そこに「生きること」の秘訣があるという考えが、佐伯さんのことばから伝わってきます。
春樹の小説も、教師にみちびかれて「謎とき」をする素材にされてしまったら、「大量生産の時代」を支えていた教材とおなじようにしか機能しないはずです(こうした「謎とき」は、結局のところ「教師が生徒に正解を教える」という伝統的な授業に行きつきます)。「体験型アミューズメント」としての特質をフルに活かした、生徒がじぶんとむきあうきっかけとなるような「春樹の小説の授業」がやれないものか――その具体的な手立てを、私は現在模索しています。
ところで、この原稿を書いているさなかに、今年のノーベル文学賞が中国の莫言にあたえられたというニュースが飛びこんできました。下馬評では「最有力候補」といわれていた春樹は、今年も受賞にはいたりませんでした。
反戦や体制批判など、政治的理想を明確に打ち出した作家ほど、ノーベル文学賞にえらばれやすいとしばしばいわれます。春樹も「壁と卵」演説や反核宣言など、口頭でのパフォーマンスやエッセイにおいては、思想的なことがらを語っています。けれども春樹の小説は「体験型アミューズメント」であり、政治的・思想的選択を読者にゆだねています。そこに、春樹が世界的に受けいれられている理由があることもたしかですが、ノーベル賞をとるうえでは、マイナスになっている可能性は否めません。
いずれにせよ、春樹が将来ノーベル賞をとれるかどうかについては、この連載の中でそのうち論じてみたいと思っています。