相手が誰であろうと沼田は譲らない
じつは、天正14年(1586)に家康が秀吉に臣従するに際しても、真田昌幸がカギになった。第一次上田合戦ののち、昌幸は上杉氏についたまま秀吉に従属したが、同じ信濃の国衆の小笠原貞慶も徳川氏から離反して秀吉に従った。
柴裕之氏はこれを「真田氏に離叛されたうえ、第一次上田合戦で敗退に見舞われた徳川氏を見て、もはや自身の『領国』を頼むべき存在ではないと判断したうえでの決断だったのだろう」と書く(『徳川家康』)。
つまり、第一次上田合戦の敗戦を受けて家康の領国に動揺が広がり、家康は秀吉に頼るほかなくなった、ということである。ただし、家康も秀吉に臣従する以上は、「火種」を除いておきたい。秀吉は天正14年6月14日、大坂城に出仕した上杉景勝に、家康が出仕したら真田昌幸や小笠原貞慶らを家康の与力とすると伝えたが、黒田基樹氏は「この内容は、家康から要請されたものであったろう」と説く(『徳川家康の最新研究』)。
その後、昌幸がなかなか秀吉に出仕しなかったので、家康は秀吉に真田討伐を申請して承認されている(昌幸が上杉景勝にとりなしを頼んで中止になるが)。
ここまでの経緯をまとめると、平山優氏の以下の表現になる。「真田昌幸は、沼田・吾妻領を決して手放そうとせず、徳川・北条同盟を相手に一歩も退かずに戦い、上杉景勝や秀吉と結んでついにその維持に成功する。この沼田・吾妻領問題こそ、秀吉による天下統一に向けた動きが、もはや動かしがたい現実となった戦国時代の大詰めの時期に積み残された最大の課題となった」(『天正壬午の乱』)。
昌幸が歴史を変えたといえるワケ
この沼田問題は最終的には、天正16年(1588)8月に北条氏政の弟の氏規が上洛し、北条氏が秀吉に従属する意志を示したことで、解決するはずだった。
天正17年(1589)、秀吉はみずからこの領土問題を裁定し、上野の沼田領と吾妻領に関しては、真田氏が押さえている部分のうち、沼田城を含む3分の2は北条氏に与えられることになった。残り3分の1は真田氏に安堵され、真田氏が放出した領土に相当する替地は家康が補填する、という内容だった。
こうして年末には北条氏政が上洛し、一件落着となるはずだったが、10月末に沼田城代の猪俣邦憲が真田方の名胡桃城(群馬県みなかみ町)を攻め落としてしまう。これに秀吉が激怒して北条氏の征伐を決意。翌天正18年(1590)の小田原攻め、北条氏の滅亡、そして家康の関東移封へとつながっていった。
すなわち、いま述べた小田原攻め以降の展開はみな、真田昌幸があるところで妥協していれば、起きなかったことだともいえる。歴史に「もしも」を言い出せばキリがないが、あえていえば、昌幸がこれほど頑固でなければ、家康が関東に移封になることもなく、したがって江戸が関東の中心、ひいては日本の首都になることもなかったかもしれないのである。
だが、昌幸はさらにひとつ、歴史に大きな足跡を残している。