豊臣方の武将たちは「真田日本一の兵」と評価

ところが、『真武内伝』という史料には、信繁と久作が一騎打ちをしたと書かれている。戦いの終盤、信繁は残った兵を率いて、徳川方に突撃すると、深く攻め込んでいった。このとき久作は、信繁の乗っていた馬の尾をつかんで、引き止め、一騎打ちを呼び掛けたという。

ここで二人は、刀を抜いて一騎打ちになろうとした。ところが、すでに十数カ所の傷を負っていた信繁は、戦い続けた疲労もあり、力尽きて馬から転げ落ちた。そこをすかさず、久作が信繁の首を取ったというのである。信繁の首実検の際、家康はこの話を疑ったと伝わっている。信繁と久作が一騎打ちに及んだか否かは不明な点も多いものの、打ち続く戦いで疲れ切っていた信繁が久作に討ち取られたのは事実であろう。

信繁をはじめ、豊臣方の諸将の戦いぶりは、後世に伝わるほど高い評価を得た。島津氏が「真田日本一ひのもといちつわもの」と称えているのは、最大の賛辞である(『薩藩旧記雑録さっぱんきゅうきざつろく』)。

内通者が厨房に放火し、大坂城は火の海に

豊臣方は頼みの綱の信繁が討死したので、敗北が決定的になった。ようやくこの段階に至って、秀頼は出陣しようとしたが、敗勢は濃く、もはや挽回できる状況にはなかった。やがて、大野治長ら将兵は、続々と大坂城に戻ってきた。そこで、秀頼は速水守久の助言に従い、不本意ながらも本丸へと逃れたのである。

豊臣秀頼。豊臣秀吉の子(写真=京都市東山区養源院所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

午後4時頃、大坂城三の丸に火の手が上がった。台所頭は徳川方に通じていたので、厨房に放火したといわれている。火の手が広がるとともに、勢いあまる徳川方は一気に城内に攻め込んできた。炎は二の丸、大野治長の屋敷にまで広がった。豊臣方は、城外に脱出する者や城内で自害する者が続出した。豊臣家の重臣・大野治房、牢人の仙石秀範ひでのりらも、たまらず城外へと脱出した。もはや反撃の術はなかった。

二の丸では、秀頼の軍旗や馬印を預かっていた将兵が、観念して次々と自害して果てた。女中の「おあちゃ」は、放置された馬印がそのままになっていると恥辱になると考え、ほかの女中と馬印を回収すると、敵の目に触れないように粉々に打ち砕いたと伝わっている(『おきく物語』)。もはや、本丸に火の手が移るのは時間の問題だった。