93歳で他界した祖母が遺した願い

祖父は終戦後「別人のように痩せて帰ってきた」と教えてくれたのも祖母だった。隣の硫黄島の兵士たちは玉砕したのだから、祖父は幸運だったと言えるのだろう。だが、戦争で消耗した体は以前のようには回復せず、1965年に56歳で病死した。

そしてその長男である、僕の父も1987年に47歳で急逝した。祖父の足跡や人柄などを聞く前に、父は天国の祖父の元に旅立ってしまった。だから、現在46歳になった僕が知る祖父の情報は「硫黄島の隣の島から衰弱して生還した元兵士」ということだけだ。

祖母は、僕に履歴書を見せたとき、こんな話をした。

「お父さんはもういないから、聡ちゃんが大きくなったら大切に預かってね」

父ができなくなったことは、自分が果たさなくてはならない。そんな使命感のような思いがこの時、幼い心に刻まれた。そして、その履歴書は、2008年に93歳で他界した祖母の願い通り、今、僕の手元にある。

遺児の僕、硫黄島の戦没者遺児と出会う

祖父の履歴書を見て以来、僕は硫黄島への関心を持ち続けた。関心が一段と大きくなったのは大学卒業後、北海道苫小牧市の地域紙の記者になってからだ。2006年、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』が公開された。人気アイドルグループ「嵐」の二宮和也さんが主要キャストを務めたこともあり、若い世代も関心を寄せた。

二宮さんが演じたのは、待望の第一子の誕生を目前に控えながらも、召集令状によって硫黄島に送り込まれたパン屋の店主だった。彼の視点を通じ、玉砕に至る激戦の経過が概ね史実に即して描かれた。

一方、映画では描かれなかった事実がある。それは、本土の防波堤となるべく散った硫黄島兵士たちの戦後だ。玉砕した2万人超のうち1万人の遺骨が今なお島内に残されている。

硫黄島の航空写真(写真=U.S. Navy photo by Mass Communication Specialist 1st Class Trevor Welsh/CC-PD-Mark/PD US Navy/Wikimedia Commons

僕はこの事実を、映画鑑賞後の運命的な出会いによって知ることになった。

その出会いの相手とは、当時74歳だった三浦孝治さん。札幌のベッドタウン、恵庭市に住んでいた。定年退職後の第二の人生を、父が散った硫黄島での遺骨収集に捧げた戦没者遺児だった。地域の行事で出会った際、本人からそんな半生を打ち明けられた。