論理の面白さ<2>ハッとする

2つ目のタイプが、「ハッとする」(で、グッとくる)という論理の面白さである。トシちゃん系の面白さだ(「ハッとして!Good」)。これは因果論理それ自体の持っている面白さを意味している。知識創造理論のような本質論とはちょっと違う。本質論が「それって何なの?」という「ナニナニもの」の論理だとしたら、「ハッとして、グッとくる」論理というのは、「ナゼナゼもの」だ。

ハッとする論理の面白さにもいろいろある。ここでは3つのタイプを紹介したい。

まず一つめは、「代替的な論理の出現」。例えばそれまで「AであればあるほどX」と言われていたのが、「実はXに効いているのはB」というロジックが見つかって、しかもAよりもBのほうが説明力の点で勝っている。こういうときに、ハッとしてグッとくる。

『民主化するイノベーションの時代』という本の著者でもあるMITのエリック・フォン・ヒッペルさんは、「イノベーターとしてのユーザー」というテーマで研究をしている。その主要概念が「リードユーザー」。この概念自体は、野中先生の知識創造の概念のような本質論にくらべれば、はっきり言ってそれほど深みがある話ではない。でも、面白い。

「イノベーターとしてのユーザー」というのは次のような話である。いままでイノベーションは供給側の仕事だと思われていた。たとえば半導体の製造装置。イノベーションは装置メーカーが起こすものだと考えられていた。ところが、イノベーションの発生プロセスをよく見たら、ユーザー自身がイノベーションを起こしているケースが少なくない。だとすると、供給側がどうやってイノベーションを起こせるのかということばかりに注目するのは片手落ちだ。重要なイノベーションの源泉に蓋をしてしまう。ユーザーのほうで起きているアイデアの創出をどう取り込むかにも目を向けるべきだ、という話になる。で、ハッとする。これが代替的論理のもつ面白さである。

第二のタイプは、「AであればあるほどX」という因果論理が広く世の中で信じられているところに「実はCという第三変数がある」という論理を提出するというもの。これもまたMITのトム・アレンさんという学者は、研究開発活動の成果に影響を与える変数として、どれだけ組織外の人と密にコミュニケーションを取っているかが有効であるということを検証した。より普遍的な知識を扱う研究活動はタコツボになるとダメになるという「常識」を裏づける調査だ。

これだけだ、まあそうだよねという話なのだが、アレンはそこに新たな変数を持ち込んだ。R&Dでも、基礎的なR(研究)に寄った活動もあれば、特定の製品をつくるためのD(開発)寄りの活動もある。社内外の人とのコミュニケーションがR&Dの成果に与える影響は、仕事のタイプという媒介変数によって大きく変わってくる、ということにアレンは気づいた。製品開発のような組織特殊的な活動においては、文脈がわかってない外部の人とやりとりしてもノイズが増えるばかりで、成果には何のインパクトもない。Dの場合は実は社内の人とのコミュニケーションのほうが成果に対して正の効果を持っているというわけだ。

ちょっと地味な研究の例ではあるが、視点が拡張し、ハッとする。ものごとについての理解が深まるし、新しいアイデアが出てくる(たとえば基礎研究部門のスタッフに学会に出張するコストをかける意味はあるが、開発プロジェクトのエンジニアに対しては、社内の飲み会や合宿ミーティングに時間とカネをかけた方がペイする、というようなこと)。

「ハッとして、グッとくる」第三のタイプは「逆説」だ。平たく言えば「どんでん返し」。いま「Xだと、よりYになる」という因果関係が、「Xだと、むしろYでなくなる」「XであるほうがYを阻害する」というように、ひっくり返ってしまうというパターンである。このタイプでとびきり面白いのが、クレイトン・クリステンセンさんの有名な論理、「イノベーションのジレンマ」だ。

多くの方がご存知だと思うが、「顧客のニーズを追求し、新技術にも投資を惜しまない優良企業が、その優れた経営ゆえに破壊的イノベーションにやられてしまう」というロジックである。クリステンセンの著書『イノベーションのジレンマ(The Innovator's Dilemma)』のサブタイトルは、「技術革新が偉大な企業を滅ぼすとき(When New Technologies Cause Great Firms to Fail)」である。イノベーションにおいては、しばしば「偉大な会社」の「正しい取り組み」が失敗を招く、という論理だ。

イノベーションには、従前のパスに乗った「通常型のイノベーション」と、これまでの技術進歩が前提としていた次元を転換してしまう「破壊的なイノベーション」というまったく質の異なる2種類がある。これが彼の論理の核となる主張だ。これまでの「イノベーションへの正しい取り組み」からは、破壊的なイノベーションは生まれない。むしろ、顧客に対して価値を提供しようという「正しい経営」が重要なイノベーションの芽を摘み取ってしまう。これぞ逆説である。ハッとする。「なるほどね!」と、グッとくる。面白い。だから、いまでもクリステンセンのこの本はロングセラーとなっている。

クリステンセンさんのような大学者と並べるのも僭越きわまりない話だが、僕の芸風もどちらかというと「ハッとしてグッと」のトシちゃん系である。世の中みんなが、「XになればなるほどYだ」と思っていたのが実は逆だったとか、そういう展開の論理を考えるのが大スキ。勉強していて面白いと思うのも、アレンやクリステンセンのような「ハッとする」系のものが多い。

詳しくは拙書を読んでいただきたいのだが、『ストーリーとしての競争戦略』で僕なりにいちばん価値があると思っている論理は、「戦略を構成する部分と戦略ストーリー全体では合理性にギャップがある」という話だ。ここから「非合理の合理性」という考えが出てくる。儲けるために「良いこと」をやっているだけでは、持続的な差別化は不可能だ。そもそもそんなに「良いこと」であれば、とっくに誰かがやっているだろうから差別化にならない。「間違ってなければ違いにならない」のである。

競合他社からみて、自社に戦略ストーリーに一見してあからさまに「非合理」な面があれば、他社は同じことをするのを意図的に忌避する。優れた戦略がストーリー全体として合理的であっても、そこにストーリーの文脈から切り離してそれだけ見るとやたらに非合理の要素が入っていれば、差別化が持続する。他社がほかの要素を真似しても、肝心の非合理にみえる部分をよけて通るからだ。だとすれば、真似してくるにしても競合他社は同じストーリーを再現できない。敵が戦略を模倣しようとするほど、自分たちのストーリーの一貫性を壊してしまい、パフォーマンスが低下して自滅するというなりゆきになる。

模倣障壁を高めるよりも、敵が模倣の挙句に自滅するような戦略の方が秀逸なのではないか。これが『ストーリーとしての競争戦略』で言いたかった中核的な論理だ。僕としてはわりと面白いと思っているのだが、いかがでしょうか?