鉄砲の数は戦の本番でさらに増えていた可能性

ただ、ここに誤解が生じる余地がある。戦国大名は、軍役定書で命じた員数のみで軍隊を編成していたわけではないのだ。特に鉄砲について、戦国大名は、合戦の際残留を指示されるなど動員されなかった家臣や国衆に、鉄砲と射手だけを派遣するよう要請し、戦場で引率してきた鉄砲衆に加えることで、新規の鉄砲衆を臨時編成しているのだ。

これは、武田、織田、徳川も行っていることで、信長が長篠合戦時に、筒井順慶や長岡藤孝に鉄砲足軽と玉薬たまぐすり(火薬と弾丸)の提供を求め、彼らが計150挺を送ったことは有名である。こうした編成方式は、「諸手抜もろてぬき」と呼ばれている。このように、鉄砲編成の方法は、武田・織田・徳川はまったく変わりはなかったのだ。

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馬に乗れるかどうかは財力しだいという騎馬衆の実態

また、旧戦法の象徴とされる騎馬衆については、その実在をめぐって議論があったが、東国の戦国大名は、「乗馬の衆、貴賤ともにかぶと喉輪のどわ手蓋てがい・面頰当・脛楯はいだて差物さしもの専用たるベし、此内一物も除くべからざるの事」と指示しているように、「貴賤」混合による編成だった。

具体的には、①知行貫高に基づき動員を命じられる侍身分(悴者かせもの若党わかとうなどを含む)の騎馬武者、②諸役、諸公事免許をもとに軍事動員を命じられた在村被官(軍役衆)で騎乗で参陣した者、③傭兵として召し抱えられた馬足軽、④戦国大名より蔵銭、蔵米などを支給され、個々に奉公した一騎合いっきあい衆(一騎相、一揆合とも、その名称は、騎馬武者と徒者の組み合わせに由来)、などである。

騎馬武者は侍身分のみとか、指揮官クラスだけというのは誤解であり、乗馬できるかどうかは、身分ではなく財力が問題であった。武田信玄は、永禄8(1565)年11月12日、諏訪大社下社祭礼復興に関する命令書を発給しているが、その中にも「十二月朔日ついたちの御祀については、小口郷の加賀守分より負担せよ。この神領は山田若狭守・同新右衛門尉・源兵衛三人の給恩地(恩給として給与した土地)となってしまっており、そのため(御神事銭の徴収が)断絶しているという。そこで、かの若狭守・新右衛門尉は乗馬で軍役を負担してきているのだが、来年からは歩兵で参陣し、騎馬免許とするので、三貫文を御神事銭として、両人から半分ずつ納入させることとする」とある(『戦国遺文武田氏編』九六〇号文書)。

騎馬は、それなりの財力を背景とする軍役負担であったことが窺われ、これは北条氏の事例でも指摘されている。