教師も「タダ働き」を強いられる被害者でもある

こうして現実の部活が、自主性の理念に振り回されながら、強制性を帯びてくる。これこそが部活における「自主性の罠」である。

たとえば、「部活を休みたい」と申し出た生徒に対し、顧問教師が「お前は自主性が無いのか?」と相手にしてくれないことがある。それは教師が「生徒は好きで部活に参加するはずだ」「好きな部活なのだから、生徒は休まず頑張るべきだ」と思い込んでいるからである。それどころか、「もっと自主的に頑張れよ!」と教師に命令されて服従させられたりもする。笑えないコントではないか。

とは言え、教師のみを悪者にすることはできない。教師もまた、「自主的に働いている」と見なされて、部活から逃れられないのだから。

冒頭に述べた通り、部活にどれだけ時間を費やしたからといって、ほとんどの教師にはそれに見合った手当は出ない。給特法と呼ばれる特殊な法制度の下で、公立学校の教師には残業代が支払われず、勤務時間終了後の放課後の部活や、勤務開始前の朝練習、休日の大会引率などはすべて「タダ働き」として扱われている。こうしたあり得ない実態を不服とした教師たちが裁判を起こしたこともあったが、裁判所は「教師が自主的にやったこと」と切り捨ててきた。

教師としては「部活を通じて生徒の成長を日々実感できる」というお金には代えがたい報酬は得られるとしても、金銭的な「タダ働き」を強いられるのはあまりにも理不尽だ。

「自主性」の理念はフィクションだ

こうしてみると、部活問題の元凶は部活と自主性を結びつける見方ではないかと思われてくる。「自主性」の理念は絶対の金科玉条とすべきではない。それはただのフィクションだ。フィクションの理念に振り回されず、生徒や教師が苦しんでいる現実の部活を直視すべきなのだ。

いや、むしろ、こう考えるべきかもしれない。フィクションのはずの自主性の理念が、現実に部活の苦しみをつくりだしてきた、と。

自主性のまばゆい光が、矛盾と問題を覆い隠したことで、生徒と教師を苦しめる「ブラック部活」が生まれてしまった。だから、部活問題を解決するための第一歩は、「嘘っぱちの自主性」を疑うことから始めなければならないのである。