「わたしたち」は歴史の中の部品ではない

私は、本書から2つの大事な教訓を得ました。

第1は、歴史の逆説を見る視線です。資本主義の精神において、利益追求はカギとなる部分です。しかし、そこにウェーバーは2つの逆説を示します。ひとつは、利益追求の精神が、禁欲を是とするプロテスタントの倫理から生まれたという逆説です。そして、もう1つの逆説は、プロテスタントの宗教倫理は資本主義を作動させる基盤となったのですが、一度作動し始めた資本主義の中において、その倫理はその地位を失っていくという逆説です。

宗教的な倫理が生み出した資本主義。しかし、それが成立した後には、機械化された化石のごとき世界、ウェーバーの言葉を借りると、「精神なき専門人、心情なき享楽人。この無に等しい者たち」が住む世界が現れるというのです。宗教深い人たちは、自ら創り出した渦から結局は、はじき出されてしまうのです。

私たちは、往々にして予定調和の見方をとりがちです。努力した人が報われる社会を想定してしまいます。しかし、歴史や社会、そして私たちの人生においても、渦を作り出した人が、大きくなって自ら動き始めたその渦からはじき出されてしまうことがよくあります。ウェーバーは、そうした反転する歴史のダイナミクスの存在を私たちに教えてくれます。「人生に過大な期待をしてはいけないな」という軽い諦めを感じてしまいますが、「人生は一筋縄にはいかないものだ」という人生の面白さと可能性も同時に感じないでしょうか。

第2に、「人は、パンのみにて生くるものに非ず」ということを教えてくれます。人は、宇宙の中に自分を意味ある存在として位置づけないではおれない存在だと、ウェーバーは考えたようです。そして、わずかに差し込んでくるたった一条の光であっても、イデアに導かれて自らの人生を歩んでいくことができます。そして、歴史は、決して自然法則の結果としてできたわけではなく、自分を宇宙に意味ある存在として位置づけたいと願う人々の意思が必ずや介在するのです。そのことを、ウェーバーは、この大著を通じて教えてくれました。そのような読み方を教えてくれた、先に述べたスメルサー&ワーナーにも、感謝しないといけません。

かすかなものであっても、一条のイデアの光があれば、私たちは生きていけます。ここで、イデアとは、「真善美に関わるこれしかないという価値」の意味で用いています。そのイデアは、その人の人生に意味を与え、豊かなものにし、そして将来を切り開く力を与えてくれます。そのイデアが何であれ、それがあれば、私たちは、歴史の大波に翻弄されるばかりでなく、歴史を創り出すことさえできます。

そして最後になりますが、そうした人生への勇気を、研究という仕事を通じて与えることができるということを、ウェーバーはこの本で示してくれました。無味乾燥に思える研究活動にも、ロマンはあるのです。というより、ロマンのない研究は研究ではないのではないか、そんなことを教えられました。

ドイツの古都ハイデルベルク。マックス・ウェーバーが教鞭を執ったドイツで最も古い大学(ハイデルベルク大学、1386年創設)がある学都でもある。旧市街対岸の山腹にある「哲学者の道」は、京都市左京区の「哲学の道」の元ネタである。
(写真はハイデルベルク大学。野々下裕子=撮影)
(著者近影提供=流通科学大学/編集部=文中写真撮影)