待ち受けるのは巨大企業に徹底管理された社会

現在:企業→人びとに賃金を支払う→人びとが消費者となって企業からモノやサービスを買う→企業の売上が立つ

未来:企業が政府に法人税を納める→政府がベーシックインカムを人びとに支給する→人びとが消費者として企業からモノやサービスを買う→企業の売上が立つ

上記のように循環が変わるという可能性だ。現実に政策としてそれが設計可能かどうかは別として、思考実験としてはおもしろい。もしこういう循環が成立できるのなら、仕事が奪われても人びとの生活は成り立ち、経済はまわるということになる。

もしそうなれば、古代ギリシャの市民が奴隷に労働させて自分たちは広場で議論していたように、二十一世紀のわたしたちもAIとロボットという奴隷に仕事をさせて、あまった時間を民主主義の議論やエンタメや遊びに振り分けられるかもしれない。

しかしこのような流れに対して、強い批判も出てきている。

そのような「安楽な暮らし」はAIに完璧かんぺきにコントロールされ、ビッグテックによって徹底的に管理された社会であり、「自由がないのでは?」という批判である。言い換えれば、ビッグテックのエリートたちが、わたしやあなたのような一般社会の側の人たちを王様のように支配する世界が訪れるのではないか、という異議でもある。

「無料ならプライバシーなんて要らない」人も

それらの批判は、いま逆風としてビッグテックに襲いかかっている。人びとのプライバシーを広告ビジネスに利用し、巨利を得ているからだ。「大事なプライバシーを奪い取ってもうけるなんて!」という非難が世界中で強まっている。プライバシーの監視をお金儲けの道具にし、監視をビジネス化しているというので、「監視資本主義」という強烈なワードも登場してきた。

しかし問題はそんなに単純ではない。なぜならビッグテックの提供している検索や地図やSNSなどのサービスは、プライバシーを吸い取られるかわりに無料や安価でサービスを受けられるというメリットもあるからだ。お金に余裕のない人にとっては、これは福音である。

自由を愛する人は「プライバシーを集めて利用するなんて」と怒る。でも明日の食事にも困っている人の中には、無料で動画やゲームが楽しめ、友人に無料でメッセージを送れるのなら「プライバシーなんて要らない」と思う人も少なくないだろう。

「監視資本主義」の批判には、そのような視点が抜け落ちている。格差社会の視点が抜け落ちた批判は、しょせんは「金持ちの道楽」的ではないだろうか。