ただし、プーチン大統領が表明したゴルバチョフ氏への深い哀悼の意は、偽りでないと思う。日本のマスコミではあまり報道されなかったが、彼が9月1日に、ゴルバチョフ氏が亡くなった病院を訪れたときの映像を見ればわかる。ひつぎにバラの花束を手向け、ゴルバチョフ氏の顔をじっと見つめていた。本音では、「この人のおかげで、自分はロシアの大統領になった」と感慨に浸っていたのかもしれない。ある意味でゴルバチョフ氏の大改革がなければ、KGB(ソ連国家保安委員会)の末端にいた彼が、大統領まで上り詰めることはなかっただろう。

欧米では、ゴルバチョフ氏の功績は十二分に評価されている。彼の改革がなければ、ソ連は解体よりも悲惨な内部崩壊が起こっていたはずだからだ。

ソ連崩壊のトリガーはソ連初の国際ロックフェスティバル

あのころ、私がソ連崩壊のトリガーを引いたと見ているのは、1989年8月にモスクワで開催されたソ連初の国際ロックフェスティバルだ。内部崩壊のエネルギーが爆発寸前であることを象徴していた。モスクワ五輪のメイン会場だったレーニン・スタジアムに10万人以上が詰めかけ、米国のボン・ジョヴィはじめ西側のロックバンドが演奏するヘヴィメタルやハードロックに人々は熱狂した。

西側のロック・ミュージックは、ソ連では“聴いてはいけない音楽”だった。このフェスティバルは、若者たちが欧米文化に憧れていることを明らかにし、「ソ連も変わったな」と思わせる衝撃的な出来事だった。

当時はゴルバチョフ政権が、ペレストロイカ(再改革)、グラスノスチ(情報公開)の改革を進めている最中だった。ゴルバチョフ氏は、人々のエネルギーが高まって騒ぎだしても容認し、フェスティバル開催を認めたのだ。東欧各国のソ連離脱にも当てはまる姿勢だ。

私は80年代後半にマッキンゼーの仕事で東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリーなどを訪れていた。ベルリンの壁が崩壊する前、チェックポイント・チャーリー(国境検問所)を通って東ベルリンに入ったこともある。メイン通りのウンター・デン・リンデンは立派だったが、裏通りに入ると廃墟みたいなアパートが立ち並んでいた。エレベーターはなく、漆喰を塗ってない壁はボロボロ、明かりは裸電球だった。大気汚染で街全体が暗く、高速道路のアウトバーンも路面はガタガタだった。

肉屋に寄ったら、配給制で商品がほとんどなかった。肉屋に豚一頭が配給され、解体して商品を並べると瞬間で売り切れてしまうのだ。「とてもじゃないけど、この体制はもたない」と肌で感じた。