子どものころの学びや経験がいかに貴重か

現在、私は48歳。4歳あたりから44年間分の記憶がある。そのうちコロナ騒動は2年間のため、人生の4.5%にすぎない。ならば12歳ならどうか。25%である。7歳ならば67%。83歳ならばほんの2.5%だ。

人間の知能や知識、経験は若ければ若いほど高められ、深く吸収されるものである。また、私のような中高年よりも子どものほうが、未知の経験に触れた際には「うわー、楽しい!」や「こんな世界があったんだ!」と純粋に感動し、想像を広げられるといった感受性の高さも備えている。

最近、私は釣りを愛好しているが、初めてハゼを釣った小学3年生のとき、竿先から伝わる「ブルブル」というアタリに痛く感動したことが忘れられない。その記憶を原動力にして、再び釣りをするようになったともいえる。

遊園地、映画館、観劇、各種学校行事、帰省、墓参り、友達の家でゲーム、公民館での子ども会、虫捕り……ありとあらゆることが制限なく楽しめた。親から言われていたのは、せいぜい「6時までに帰って来なさいよ」や「私有地で遊んではダメよ」、「クルマに気をつけてね」といった程度のことだ。

「日本の明るい未来」が想像できない

大人たちからあらゆることを制限され、我慢することが当たり前の時代に幼少期を過ごした子どもたちは、大人になったとき、どんな社会をつくっていくのだろうか。2019年以前よりもさらに同調圧力が強化され、出る杭は打たれまくる、つまらない社会になるかもしれない。おかしいと思っていることさえ「おかしい」と言えないような、抑圧感の強い社会になっても、あなたは構わないのだろうか?

私はこの1年半以上、「お前は殺人鬼だ」などとさんざん誹られながら、過剰なコロナ対策への違和感であるとか、それを唯々諾々と受け入れる世間の不気味さに対して異議を呈すべく、この手の文章を書いてきた。まぁ、常に劣勢だった。

ただ、少数派ながらも私のような考えを持つ人々は存在し、ツイッターで負け犬の遠吠えを続けてきた。が、いまの子どもたちはそうしたことさえできなくなるかもしれない。ひとたび「これはヤバい!」と社会的なコンセンサスが形成されてしまったら、何もできなくなる──そんな殺伐とした現実を、コロナ騒動を通じて私たちは目の当たりにしてきたのだから。

となれば「倒産したり、株主に迷惑をかけたりするのが怖いし、責められたくない」と、今後は起業などもおちおちできなくなるだろう。企業においても、リスクがある一方で大きな利益をもたらすかもしれない新規事業に挑戦したり、従来の常識を覆す意欲的な企画を提案したりする人材がいなくなってしまうのではなかろうか。

こうしたマインドが定着すれば、今後の日本は海外の金持ちに対して、安くて従順でそこそこレベルの高い人材を供給するだけの国になっていくのかもしれない。とはいえ、日本は先進国のなかでも有数の「英語ができない国」のため、海外に出るとしても第一次産業の担い手や、現在は東南アジアの人々などが数多く担っている外国籍タンカーの乗組員の仕事あたりが現実的なところだろう。「そんな未来図は悲観的すぎる」と思われるかもしれないが、決して絵空事ではない。空前の円安が起きて日本の不動産が海外資本に買われまくり、そこにリゾート地ができて、関連施設のベルボーイや掃除人に日本人が就く。そんな将来すら私は想定している。