アメリカ人はノーを簡単に言いすぎる

例えばドイツも、アメリカに比べると日本以上に空手的です。アメリカではフレンドリーさともてなしは別物です。誰もが知っている表面上のフレンドリーさはあっても、アメリカ人には簡単にノーが言えるところがあるのです。

ちょうど最近、ニューヨークから有名な先生が客員教授として訪れていました。とても興味深い人物がドイツに来ていたわけです。そこで彼をパーティーに招待しました。ドイツ人の常識ではパーティーに出席しないなどありえない。ところが彼はアメリカ人の常識で、今夜は行けませんとあっさり断りました。ドイツでは大変失礼なことです。でも私はアメリカ人を知っています。

私としてはメンタル空手のドイツ人バージョン、そうですね、ピストルを抜くこともできたわけです。ふだんであれば相手のふるまいに対して社会的に相手を撃っていたでしょう。一種の社会的な処刑です。でも私は引き下がってノーを受け入れました。彼はパーティーに来たくないのだな、それでかまわないと。

日本人はノーを許さない

日本ではもっとやっかいだったでしょう。このような場合、日本ではみんなが戦いを仕掛けてくるのです。私がパーティーに行きたくないと言ったとします。「そうですか、わかりました」。その後で、日本人の友人から今夜パーティーがあると電話がかかってきます。「あれ? もうお伝えしたけれど、私は出席しません」「そうでしたね、忘れていました」。

でも、今度は別の人からパーティーの件で電話がかかってくる。「もう○○さんにお伝えしたけれど、私は欠席します」「そうでしたか、失礼しました」。そうしたら今度はドアをノックしてくるのです。「パーティーにいらっしゃいますか?」と。日本ではこうなる。結局パーティーに行くことになります。最終的にこちらが降参する。死ぬまで戦うと先ほど言ったのはこういう意味です。

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このような同調圧力に代わって、相手が行きたがっていないことを素直に受け入れる和平条約があってもいいのではないかと思います。これは日本ではとても難しいのでしょうね。ドイツのほうがもう少し楽ですが、それでも同調圧力に関して日本とドイツは似ています。ただドイツのほうが和平条約が成立する余地があります。とはいえ、いろんな言い訳をしなければなりません。社会的シチュエーションから抜け出すのは大変です。

一方、アメリカでは社会的シチュエーションから抜け出すのが簡単すぎます。だからドイツと日本とアメリカ、この3つの選択肢の間に程よいレベルを定める必要があると思います。3つを合体させればいいのかもしれません。もっと平和にやることを想像してください。日本はあまり平和ではありません。アメリカやドイツなど他国のやり方を知るのは大事だと思います。相手を許すべきかもしれない、あるいは別のやり方があるかもしれない、などと考える契機になりますから。