元寇の記憶によって「神風」信仰が作られた
織田信長の「桶狭間の戦い」における奇襲戦法や、源義経の「一ノ谷の戦い」における鵯越の逆落としなどは、実際これらがどのように実行されたのか、学問的に価値のある史料からは解き明かされていません。それにもかかわらず小説や講談などで描かれてきた英雄譚によって、少数が多数を打ち破る、柔よく剛を制すのごとくロマンばかりが強調されてしまったと言えます。このように、少ない兵力でも工夫次第で大軍を破ることができる、文学的、英雄的なロマンを実際の戦争にも当て嵌めてしまったのが、戦前・戦中の歴史学だったのです。
その極め付きは「神風」信仰でしょう。
文永11(1274)年と弘安4(1281)年の二度にわたって、当時のモンゴル軍、すなわち元軍が海を渡り攻めてきました。有名な大風雨が起きモンゴルの船は沈没して、日本側はこれを退けることができたとされています。
しかし、今日の研究では大風雨、すなわち「神風」は否定されがちです。少なくとも文永の役では実際の戦闘によってモンゴル軍は退却したと考えられています。一方で高麗軍とともにモンゴルの大軍が再び襲来した弘安の役では台風が起こったのではないかとされています。
元寇の記憶において、いざとなれば神風が吹き、日本を守ってくれるという信仰が作られ、皇国史観全盛の戦前・戦中ではまことしやかにこの話が学校で教えられたのです。
皇国史観を信奉する歴史学と軍部が結びついていた
現在、80歳を超えた年配の方は、太平洋戦争の終結の頃はまだ小学生くらいだったわけですね。ですからしばしば私は、彼ら彼女らに尋ねます。日本は負けると思っていましたか、と。すると、ほとんどの方が、「神風が吹くから日本は絶対負けないと、本当に信じていた」とおっしゃいます。
まともな軍事研究がされなかった戦前・戦中において、ロマンの物語は国力が10倍以上だったアメリカに対して、工夫さえ凝らせば日本のような小さな国でも勝てるんだというような幻想につながっていった。太平洋戦争において、最前線の日本軍兵士が最新装備も食糧も人員もないなかで、最後は精神論のみで戦わされることとなったのも、こうした幻想がまことしやかに語られていたからではないかと思います。皇国史観を信奉する歴史学と軍部が強く結びついたことで、このような幻想が生まれたのです。
敗戦となり戦後を迎えた日本では、戦時中の教育や学問のあり方が大きく反省され、見直されました。その結果、戦後の歴史学は物語としての歴史に傾いた皇国史観を徹底的に批判し、実証性に基づいた科学としての歴史をきちんとやらなければならないという方向へと進みました。
こうなると、とにかく戦争が連想される軍事というものは徹底的に忌避される。軍事につきまとう物語性が非常に嫌われ、軍事研究自体を遠ざけ、敬遠する風潮が間違いなく生まれたのです。