東大に進学するより価値があった
いくつかの学校は学校群制、通学区変更という政策でも受け入れ生徒の学力が大きく下がるということはなく、神童、天才、秀才たちが離れていくこともないまま一中のブランド力を維持できた。もちろん、伝統を継承してきた底力、時代の変化に挑んできた試みのおかげだが、地域の入試制度が一中を守った側面はある。
それを受けて、各中学校には、学年トップを一中に送り出すという不文律が引き継がれてきた。もっとも中学生天才児が一中ではなく、地方からも開成や灘に進むケースがあり、ブランド力は万全とはいえないが、一中が廃れるということはなかった。
また、いまでも都道府県、市町村の幹部に一中出身者が多いところがある。首長が一中出身というところも少なくない。知事では、岩手県・達増拓也(盛岡第一)、茨城県・大井川和彦(水戸第一)、新潟県・花角英世(新潟)、岐阜県・古田肇(岐阜)、和歌山県・仁坂吉伸(桐蔭)がいる。彼らはみな東京大出身である。
任期途中で病を得、辞職して闘病ののち亡くなった福岡県・小川洋(修猷館、京都大出身)も、大阪府知事、大阪市長をつとめた橋下徹(北野、早稲田大出身)もいた。一中出身者は知事選挙をうまくたたかえる。同校卒業生のネットワークが威力を発揮し、一中というブランドが特に効くからだ。
父、祖父、曽祖父など先祖代々、旧制中学時代から一中に入学してきたという家系もある。彼らにすれば、たとえば東京大や東北大よりも盛岡第一高校なのであり、その威光が消えることはないのだ。
各都道府県に作られた「進学エリートコース」
(2)エリートコースの確立 番町小→麴町中→日比谷
1990年代まで、多くの地域では、通学できる範囲に制限のある学区制が敷かれていた。このため、特定の小学校と中学校を経て一中に進むケースが見られた。
1950年代後半から、高校進学率の上昇とともに、全国で教育熱心な親が現れた。子どもをなにがなんでも東京大へ行かせたい、という親の思いは、幼稚園、小学校選びから始まる。戦後の高度経済成長の恩恵を受けて世の中が豊かになったせいか、教育にお金をかけられる家庭が増えた。「教育ママ」ということばが普通に使われるようになった。
東京大、京都大や地元国立大学にもっとも多く入学する高校、そこにもっとも多く進学する中学校、そこにもっともにたくさん入れる小学校に通わせるため、各都道府県でエリートコースが作られつつあった(図表3)。
なかでも、もっとも有名なのが東京の番町小学校、麹町中学校、日比谷高校である。しかし、これらの小中学校に通うためには特定の学区に住まなければならない。そこで教育ママたちが考えたのは、学区内にアパートを借りて(または借りたことにして)住民票を移すことだった。越境入学である。