教壇に立っていたのは教養人や受験指導のプロ

日比谷の別の教員は、1964(昭和39)年の東京大193人合格についてこんな談話を寄せている。

「東大の合格者数は昨年に比べ26名ふえたが、その理由は低調だった昨年の現役(ことしの1浪)が活躍したからであろう。事実、1浪合格者は89名から107名にのぼった。本校は現役の生徒には、受験のための補習授業はいっさい行なわない。学校での学習はいわゆる授業徹底主義で、1科目100分の授業をフルに活用する。わからないことは最後まで突っ込み、授業の内容は相当に深い。この授業徹底主義こそが、受験勉強としてもっとも大切なことであろう」(『螢雪時代』1964年5月号)

同年、東京大に合格した日比谷高校出身者は、通信添削の増進会(現・Z会)機関誌の座談会でこう話している。

「現代文は授業がたいせつだと思います。ぼくたちは、自分で一つの作品を選び、それを授業時間のとき、研究発表をするんです。生徒同士でやっているから、親しみもあって、先生がやるときよりも活発に質問が出る。そうしたことが力になりました」(「増進会旬報」1964年8月1日発行)

授業の大切さや予習復習の重要性を説いた内容である。教える側には前身の旧制府立一中から教壇に立っているベテランがいる。大学入試に精通した受験指導のプロ、学問分野をきわめた教養人などがいた。1970-90年代、受験の英語で一世を風靡した『試験にでる英単語』の著者、森一郎氏はその代表格であろう。

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なぜ一中に地域のエリートが集まってきたのか

もっとも、他校の進路指導教諭は冷ややかに受け止めていた。日比谷は各地域の中学の1、2番が集まってくる、そんな秀才たちは自分で勝手に受験勉強を先取りするから、日比谷の先生は楽なんじゃないか。日比谷だからこそそんなスタイルの授業でも東京大受験に対応できるのであって、そのやり方がどの高校にも通用するわけではない、と。

ではなぜ、日比谷のような一中に地域のエリートが集まったか。そこには歴史的な背景、学校の事情があり、下記の要因が考えられる。

(1)ブランド力 東大より一中

1949(昭和24)年に東京大入試が始まってから、その都道府県内で東京大合格者数1位をほぼ続けてきた学校がある。入試制度、学区の変更などに影響を受けなかったところだ。山形東、浦和は1位を譲ったことがない。盛岡第一、秋田、宇都宮、高松は1、2回トップを逃した程度だ。

私立や国立大学附属が圧倒的に強く県下トップにはなれないが、進学実績面で長く2番手のポジションを守る一中がある。地元で「名門校」としての存在感をしっかり発揮しており、これらも記しておきたい(カッコ内は私立、国立大学附属の東京大合格者数1位校)。

千葉(⇔渋谷教育学園幕張)、金沢泉丘(⇔金沢大学附属)、松山東(⇔愛光)、修猷館(⇔久留米大学附設)、鶴丸(⇔ラ・サール)などだ。