島の北側はフィリピン空軍の飛行場、一万数千人の住民が住むニッパヤシの家の集落があるが、南はゴンチン山系の険しい密林が断崖だんがいの海岸線に落ち込んでいる。

私は情報が隔絶されたこの島で三十年近く、祖国の敗戦を信じず「残置諜者」として戦ってきた。

私は日本の現状をまったく知らなかったわけではない。

約三十年の間に九十三回の討伐(フィリピン空軍の記録では百三十三回だった)を受け、二十七年間、行動を共にした小塚金七一等兵が戦死してからは、大掛かりな「救出捜索」という名の“討伐隊”がやってきた。彼らが残した日本の新聞や雑誌から、おおよその日本の状況はつかんでいた。

しかし、私はこれらを米軍が日本兵をおびき出すために新聞、雑誌を巧妙に改ざんした謀略、宣伝工作だ、と信じて疑わなかった。

いまになってみれば、情報将校としてお恥ずかしい限りの現状誤認である。私に弁解の余地はないが、歴史の偶然は、当時の私の情勢分析通りに進んでいったのである。

「満州から徹底抗戦する」同時期に朝鮮戦争が勃発

昭和十九年十二月、私は比島(フィリピン)方面軍司令部から「ルバング島で遊撃(ゲリラ)戦を指導せよ」という赴任命令を受けたとき、参謀部に呼ばれ今後の戦局推移の説明を受けた。

「盟邦ドイツの降伏は時間の問題だろう。戦況はわが軍にますます不利だ。サイパンが陥落し、海軍はレイテ沖海戦で壊滅的打撃を被った。米軍は今後まず沖縄上陸作戦を敢行。九州・大隅半島に上がり、浜松を拠点化、九十九里浜上陸を目指す。本土決戦は必至である。最悪の場合、米軍による日本本土占領もありうる。その場合、日本政府は満州(現中国東北部)に転進、関東軍を中心に徹底抗戦を図る。大陸には陸軍八十万人の兵力が温存されている。反撃攻勢の時期は三年ないし五年後と想定される」

五年半後の昭和二十五年六月、朝鮮戦争がぼっ発した。マニラ湾の米艦艇、空軍基地の動きが急に慌ただしくなった。西風の日、海岸に機帆船の残がいが漂着した。日本船籍を示す「○○丸」の字が読みとれた。私はついに日本が大陸から反攻に転じた、と判断した。

私の状況判断を決定的に誤らせる歴史の偶然は、まだ続く。