東大出のエリートの道ならぬ恋

「あれだけの大秀才が、なぜ回り道をしたのか」が気になり、すでに松下が死去していたため、彼と親しかったであろうOBの何人かに真相を聞いて回った。

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空振りを覚悟で話を聞いているうち、あるOBが「何でそんなことに興味があるの」と苦笑いしながら、ぽつりぽつりと思い出話を始めた。

「大先輩から大昔に聞いた話で記憶が定かではないが、確か、東大法学部の学生時代に恋愛問題を起こしたんじゃないかな。それも、教授だか助教授だかの奥さんと不倫して、結果的に留年か何かせざるを得なくなったと聞いたことがある」

回り道は、不倫が原因? あまりに想像を絶する話に、二の句が継げなかった。松下の場合、回り道どころか、人の道を大きく外れた時期があったということで、筆者が抱く松下のイメージががたがたと崩れていくのを意識した。

“官僚ヤクザ”が「挫折」したワケ

次に、同じ24歳で入省した保田博元国際協力銀行総裁。

風貌といい、立ち居振る舞いといい、誰が名づけたか“官僚ヤクザ”と呼ばれた。本人もこのニックネームを「仁義に篤い人」と解釈して、前向きに受け止めていた。主計局の公共事業担当主計官(課長相当)時代には予算を切りまくり、別名“ぶった切りのやっさん”の称号を奉られたこともある。

蔵相秘書官で仕えた福田赳夫元首相にことのほか可愛がられ、その後、福田が経済企画庁長官になった時も、首相に就任した時も秘書官に取り立てられた。仕事に対する口の堅さには定評があり、そこが大蔵OBでもある福田の信頼を得た要因といわれるが、官僚ヤクザの仇名通りに、どこかさばけた、人情味を感じさせる温かい人柄も併せ持っていた。

二度目の財研担当となった八九年、ある会合での思い出話が忘れられない。大蔵省幹部と財研記者との懇親会があり、たまたま官房長の保田と同じテーブルに座った。

日頃の取材で耳にしていた噂話を、こんな席ならいいだろうと気楽に尋ねてみることにした。噂話の確認も終わりかと思っていたところ、故郷・呉が引き金になったのか、問わず語りに高校から大学時代にかけての異例ともいえる人生体験を語り始めた。

「私は大蔵省に入るまで、仲間より2年も遅れてしまった。広島の県立呉三津田高校時代、テニスに熱中し過ぎて胸を病んだ。1年間休学せざるを得なくなったが、自分より1年後輩のクラスに入るのもシャクだと思い、東京にいる友人の下宿に転がり込んで都立日比谷高校の編入試験を受けて3年生を2度やった。もう一つは大学四年の夏。夏の暑い盛りに扇風機をがんがんかけて公務員試験の勉強しているうち、大風邪をひいて高熱を発し、救急車で病院に運ばれ試験を受けることができなかった。翌年受けて何とか合格したが、ここでも1年遅れてしまった」

すでに次官昇格が確実視されていた保田の話を聞きながら、エリートとは無縁の「挫折」という言葉が脳裏に浮かんだ。そうした若き日のハンディをものともせず出世街道をひた走る人物を目の前にして、「本人の実力は言わずもがな、大蔵省という組織もなかなかやるじゃないか」と素朴な感想が胸の内を駆け巡った。