原因は二日酔い

船は名古屋港に着いた。トヨタの寮に入ることになったが、それは沖縄では見たこともない近代的で大きな建物だった。寮生に用事があるとマイクで呼び出しがかかる。そんなシステムが豊里には驚きだった。食堂も完備していて、寮自体には何の文句もなかった。

仕事内容は募集要項の通り、自動車部品のプレス作業である。東南アジア向けに輸出する車の部品だと教えられたが、自動車のどの部分だかわからないまま、ひたすら「ガッチャン、ガッチャン」やった。しかし、プレスの仕事は経理専門だった豊里の性には合わなかった。

仕事の憂さを晴らすため、寮のあった豊田市ではなく、名古屋市の栄や広小路といった繁華街に飲みに行くようになった。これがつまずきの石になったと豊里は言う。

「沖縄では泡盛を飲んでいましたから、ビールは軽くて水のように思えて、グングン飲めてしまいました。でも、ビールの二日酔いは大変でした」

二日酔いが原因でいざこざを起こすようになったのか、いざこざが原因でさらに深酒をするようになったのか、どちらが先かわからないが、豊里は寮での人間関係をこじらせてしまい、それが職場にも影響するようになっていった。

「毎年沖縄で季節工を募集していたから、寮には沖縄の人がたくさんいたので、ついつい沖縄の方言でしゃべると、同じ部屋の人が『うるさい、日本語をしゃべれ』と言うのです。職場でもよく『日本語を話せ』と言われました」

やがて二日酔いで仕事を休むことが多くなり、職場に居られなくなった。那覇港を出てわずか一年後のことだった。

ドヤは体を休める場所

トヨタの寮を出た豊里は、名古屋に出て解体工や鉄筋工として働くことになった。プレス作業同様肌に合わない仕事だったが、30歳を過ぎて事務仕事へ転職するのは難しかったという。酒量はますます増えていき、暑い日でも寒い日でもビールを浴びるように飲んだ。

4、5年を名古屋の飯場で暮らした後、手配師のワゴン車で神奈川県に運ばれて、やはり解体工や鉄筋工としていくつもの飯場を渡り歩いた。

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手配師とは、建設現場や解体現場からの求めに応じて、寄場などで日雇労働者を集めては現場に送り込む存在である。自分たちは仕事をせずに労働者の日当の上前をはねるわけで、いま風に言えば人材派遣業ということになるが、それを非合法でやっている。かつて名古屋の笹島町には寄場があったというから、おそらく豊里はそこで手配師から仕事をもらっていたのだろう。

豊里は実に70歳になるまで、神奈川県内で飯場暮らしを続けていたという。飯場は大部屋が多かったから気が休まらず、よく眠れなかった。豊里は、少し金が貯まると気兼ねなく眠れるドヤに泊まりに行った。ドヤの部屋は簡素だが個室なのだ。豊里にとってドヤは堕ちていった先ではなく、むしろ体を休める場所だったのである。

友人を作らず、女性には一切ノータッチ。歌を歌うのは好きだったから、カラオケ屋へはよく行った。

「そもそも女性が苦手だったのかもしれませんが、飲むとモテました。裕次郎の歌なんか歌うと女の子が手を叩いて、注文もしないのにビールを持って来るのです」