高額の寄付には世間から厳しい声が上がることもあった
赤星鉄馬が自らについて語らなかったのは、父親が武器の取引で巨万の富を得たこと、その財産を無条件に継ぐ立場にいたことなどが理由としてあげられる。
例えば、大正3年に日本海軍高官への贈賄が発覚し、薩摩閥と海軍の関係が問題視された「シーメンス事件」で、鉄馬は当時の新聞や世論から大きな非難を浴びた。事件の先例として弥之助の事例が取り沙汰され、その資産を継いだ鉄馬に批判の矛先が向いた形だった。
「鉄馬は父親から継いだ資産を守りながら、欧米で身につけた寄付文化を日本でも実践したかったのでしょう。しかし、高額の寄付には世間から厳しい声が上がることもあった。そのなかで『良かれと思って寄付しただけでは、日本社会には受け入れられない』ということを知ったのだと思います。そうして自らの姿を消し、活動の痕跡を残さないように生きるようになっていく彼のふるまいには、富豪であったが故の孤独や寂しさ、社会の荒波を超えていくつらさを感じました」
そうして与那原さんは赤星鉄馬という「消えた富豪」について、取材の過程で次のような理解を得ていく。
〈赤星鉄馬は一代目が築いた財産を放蕩した典型的な「二代目」だったという見方もあるかもしれない。けれど私には、父弥之助が築いた資産を少しずつ失っていくことが、彼の一生を懸けた「事業」だったように思えてならない。そうして自分の姿を消していく――、意識的にそれを選んだのではないだろうか〉
欧米の学術財団から「基礎研究」の大切さを深く理解した
そして、鉄馬の「事業」の一つであった学術財団「啓明会」の功績を書き残しておきたいと思うようになったと話す。
「明治以前の学問というものは、藩がお抱えの学者を重用するという世界でした。鉄馬のルーツも薩摩藩で活躍した天文学者家系です。アメリカに留学した鉄馬は、親戚であり兄のように慕った樺山愛輔もアメリカとドイツに留学しているので、欧米の学術財団の動向を実際に現地で目の当たりにしたのでしょう。そのなかで『基礎研究』というものの大切さを深く理解していったのだと思います。そうした啓明会の価値観と功績を知れば知るほど、『ブラックバスを日本に持ち込んだ人』としてだけしか知られていない鉄馬のイメージを、どうにかして変えたいという気持ちが芽生えてきました」
啓明会は在野の研究者も含む多くのテーマを助成したが、その中の一人であった鎌倉が当時の調査を約1000枚に及ぶ論文と写真集(『沖縄文化の遺宝』)として結実させたのは、啓明会の助成から約60年後の1982年だった。