94年、生田は社長就任の直前、低迷するコンテナ部門で新機軸を発表する。海外船社とのアライアンスである。歴史的に定期船市場では大手各社が同盟を組んで最低率運賃や配船数を協定し、採算が維持されてきた。一種のカルテルなのだが、80年代以降、途上国の盟外船社の台頭で海運同盟は機能停止状態に陥る。船腹は慢性過剰の様相を呈した。


鉄鋼原料船部長の永田健一氏。「2003年頃、中国の鉄鉱石の輸入量が、国内産出量を超えました」。

生田は、グローバルにサービスを展開するには船腹量よりもファシリティが重要だと考えた。赤字続きのコンテナ船を建造する他社を尻目に、生田は新造停止の断を下す。間髪を入れず、世界の海で覇を競う米国のAPL、欧州のネドロイド、香港のOOCLのトップに呼びかけ、互いのスペースを融通しあう共同運航を提案した。が、当初「世界中で組むなんて無理だ」と反応が返ってきた。

「台北に各社の社長に集まっていただき、話をしました。目立たない場所がいいからね。皆さん、難しいけど、よく考えたらいいアイデアかもしれない、となって半年くらいでまとまりました。日本船社はうちだけだから、先行メリットは大きい、と思っていたら、どこも真似して1年半で追いつかれた(笑)。後で、アメリカの航空会社がアイデアを聞かせてほしいと訪ねてきてね。コンセプトを説明したら、航空業界にも瞬く間にアライアンスが広まりましたよ」

ナビックスラインとの合併も生田社長時代の「仕込み」のひとつだ。その頃、商船三井は不定期船部門も不振が続いていた。とくに鉄鉱、石炭、石油をどうテコ入れするか、と頭を悩ませていた生田は、97年9月、東京會舘で開かれた財界人の出版記念パーティでナビックスラインの堀憲明社長(当時)とばったり顔を合わせた。海運界から招かれていたのは2人だけだった。「神の啓示か」と生田は、堀を1階のバーに誘い、合併を持ちかけた。「とんでもない。救済される立場ではない」と堀は突っぱねたが、生田は怯まない。2回、3回とアプローチして「元気なときに一緒になってこそ、相乗効果が出る。お互い会社のため、業界のために……」とかき口説く。そして、99年、銀行も運輸省(当時)もかかわらない、海運界では極めて稀なトップダウンの合併がなった。生田は回顧する。

「出発点で、和をもって貴しとせず、コンセンサスはいらない、適材適所に徹す、と三原則を掲げました。鉄鋼原料やエネルギー系の責任者には、実力のあるナビックス出身者を並べました。副社長が、これはあんまりだ、と不満をぶつけにきましたが、1人ずつ旧商船三井の候補者と比べたら、納得してくれました(笑)」


世界の主要海運会社の船隊規模

この合併によって、資源を運ぶ不定期船部門が強化される。そこに追い風が吹く。01年末、中国のWTO加盟だ。「世界の工場」に資源が運び込まれ、製品が送り出される大循環が生まれた。

世界は「海運自由の原則」で動いている。自国発着の貨物でも政府の介入は最小限にとどめられる。だから中国の経済成長で日本の海運界が潤う。この潮流に乗って、海運会社のパートナーである船主、造船会社も飛躍した。

商船三井がグローバルな競争力を発揮できるもう1つの要因は、足元の日本にある。日本船主の優れた船舶管理能力と造船会社の高い技術力が隠れた支柱だ。 (文中敬称略)

(永井 浩=撮影)