ナビックスとの合併でエネルギー部門を強化
85年9月、ニューヨークのプラザホテルでG5が開かれ、各国は為替相場への協調介入に合意した。1ドル=240円前後だった円為替相場は、1年後には120円台にまで上昇。海運大手6社は、86年に総額473億円に及ぶ営業損益を計上した。大合理化が急務となり、90年にかけて日本人船員は3万人から1万人へ、同じく外航日本船は1028隻から449隻に激減する。その間、当時国内5番手だった昭和海運は定期航路から撤退し、山下新日本汽船とジャパンラインが合併してナビックスラインが誕生する。業界は大手4社体制に再編された。
この時期、商船三井の生田正治相談役(94~00年社長)は、定期コンテナ船を担当する取締役北米部長の任にあった。当時、アジアから欧米向けの輸出量の半分を日本が占めていたが、その割合は低下し、香港、シンガポールの比重が高まっていた。生田は「日本頼みでは先細る」と直感した。次のように振り返る。
「海外は代理店を長く使っていました。代理店はコミッション(手数料)の最大化を狙う。たくさん積んで運賃総額が大きくなればいい。しかし海運業はトータルに利潤追求するわけだから、安いものは引き受けないほうがいいこともある。そこで香港、アメリカ、欧州、マレーシアなど一挙に現地法人化を進めました」
91年末、ソ連崩壊で冷戦が終結。イデオロギーの壁が崩れて世界市場は拡大する。だが経済効果が海運に及ぶまで時間がかかった。日本はバブル崩壊で一時円安に触れていた為替相場が93年から急騰。95年の史上最高値へと向かう。
目を中国に転じると、鄧小平のもと、改革開放路線をひた走っていた。商船三井が宝山鋼鉄と初めて契約を交わしたのもこの頃だった。永田健一・鉄鋼原料船部長は、中国の鉄鉱石輸入を解説する。
「90年代初頭、中国の製鉄所は国産の鉄鉱石を使っていました。中国産は鉄分の含有率が30%程度で質がよくない。ブラジルや豪州の鉄鉱石だと65%くらい。高品質の鋼材を大量につくるには沿海部に工場を建て、輸入した鉄鉱石を使ったほうがいい。徐々に製鉄所が海辺に出てくるなかで1航海、2航海のスポット契約でおつきあいが始まりました」