▼織田信長
(1534~1582)今川義元を桶狭間の戦いで破り、歴史の表舞台に躍り出る。室町将軍の足利義昭を追放し、室町幕府を滅ぼしたのち、中国地方から関東地方にまたがる大勢力を築き上げるが、天下統一を目前に、本能寺で明智光秀によって討たれる。

孤独の中で生まれた常識破りの発想

信長の孤独は、父親であり唯一の理解者であった信秀を失ったことから始まります。信長は父の葬儀で位牌に抹香を投げつけ、彼なりに父の死を悲しみましたが、そんな悲しみ方は理解されるはずもなく、周囲は彼を「尾張の大うつけ」と呼ぶようになりました。

それは親族も同様で、信秀の死後、信長の母は弟である信行を連れて家を出ていき、家督争いの殺し合いを行うほどのものでした。

ですが、桶狭間の戦いに始まり、鉄砲三段撃ち、楽市楽座など、常識破りの発想が生まれたのも周囲の人間の顔色を窺うことなく、自分が正しいと思ったことを行ったからです。また、そんな信長は無能なはずもなく、自らが周囲から理解されないことをわかったうえで、うつけと呼ばれるような振る舞いをしていたのではないでしょうか。

我々からすれば革新的な信長の発想は、当時の人々からすれば「非常識」なものでした。その最たるものが、金ヶ崎の戦いでの撤退行為です。

天下布武最後の障害となる朝倉家との戦闘中、同盟関係にあった浅井長政の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕した戦国史上有名な撤退戦です。

戦国時代の武将は、逃げることより玉砕することが名誉と考えられていました。もし、ほかの武将であれば、戦って死ぬことを考えたでしょう。しかし、信長はあっさりと一番恥ずかしい選択である逃亡を選んだのです。

当然ですが敵前逃亡したことに対する反発は多く、1度は信長を評価してきた人間であっても「なぜ死ななかった」「それでもおまえは大将なのか」などといった罵詈雑言を信長は浴びせられ、自分を認めてきた人間たちは、手のひらを返して離れていきました。

再び、信長は孤独となりましたが、もともと他者の評価を気にしない信長にとっては関係がありませんでした。

信長は家臣の「すぐに復讐戦を行うべきだ」という意見に左右されることなく、敵方である浅井家の切り崩しに始まり、勝つための時間を惜しむことなく着々と政略を進めました。勿論、時間がかかれば味方の不満は溜まりますが、それに急かされ、短慮な行動を起こすことはありませんでした。

そして、姉川の戦いで信長は勝利し、天下布武に王手をかけることができました。これは言うまでもなく、当時の価値観に流されることなく撤退という苦汁の判断を行い、生き延びたからこそ成しえたことです。

信長の強さは、自分のことを最後まで信じぬくことができたところ。孤独に徹し、ぶれない強さを得たとき、信長のような目覚ましい成果をあげることができるのかもしれません。

【信長のここに学べ!】自分が正しいと思ったことは、反対されても絶対に曲げない