あまりに凄惨な「清涼殿落雷事件」
延喜23年(923)、日照りや水害、疫病を鎮めるために「延長」と改元されます。しかし、延長3年(925)に保明親王との娘との間に生まれていた慶頼王が満3歳で死去したことで、道真の祟りはまだ続いているとされました。そしてやはり人々を震撼させる恐ろしい事件が起きたのです。
それは延長8年(930)清涼殿において、雨乞いの実施の是非について会議が行われていた時のことでした。昼過ぎに突然黒雲が垂れ込め、あっという間に平安京を覆いつくすと雷雨が降り注いで、しばらく後に清涼殿の南西の第一柱にいきなり雷が直撃しました。
近くにいた公卿らが巻き込まれ、大納言民部卿の藤原清貫は衣服に燃え移った火に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態に。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で外に運ばれましたが、程なく死亡しました。雷は隣の紫宸殿にも落ち、右兵衛佐の美努忠包、紀蔭連、安曇宗仁も死亡。更に警備の近衛兵も2名死亡したのです。
あまりにも衝撃的で凄惨な事件でした。この「清涼殿落雷事件」直後から醍醐天皇の体調も悪くなり、震えあがった朝廷は、道真の子らの流罪を解いて京に呼び戻しますが、醍醐天皇の病は癒えなかったのです 同年、醍醐天皇は皇太子・寛明親王に譲位し、朱雀天皇が誕生します。その7日後に出家した醍醐上皇は、その日の内に崩御しました。
道真が死んで約40年後の天暦元年(947)、道真の祟りを解くために、京都に道真を祀る社ができます。それが北野天満宮であり、こうして道真は神となったのでした。