菅原道真はなぜ「学問の神様」になったのか。それは太宰府で失意のうちに道真が死んでから、朝廷で怪死事件が頻発したからだ。その極みは大納言民部卿の藤原清貫ら7人が落雷で死亡する「清涼殿落雷事件」。醍醐天皇は道真の祟りを解くため、京都に北野天満宮を建て、神として祀った――。

※本稿は、山本博文『東大流「元号」でつかむ日本史』(河出新書)の一部を再編集したものです。

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菅原道真が祀られた理由は「権力争い」

天神様、学問の神様として現代も多くの人々に参拝されている「菅原道真公」。才気あふれる学者であり政治家であった道真は、なぜ祀られるようになったのでしょうか。その理由もこの時代の権力争いにありました。

延喜・延長と、二つの元号の時代にわたって当時の人々を震撼させた、その呪いの背景を探っていくこととしましょう。

清和天皇から譲位された、まだ幼い陽成天皇の摂政を行ったのは藤原基経(良房の養嗣子)でした。しかし陽成天皇は、乱暴な人で、元慶7年(883)に清涼殿で乳兄弟の源益を殺害するという事件を起こしました。このため基経は陽成天皇を廃位し、従順な光孝天皇を擁立します。

醍醐天皇を右大臣として助けていた

しかし光孝天皇が後継ぎを定めないまま崩御すると、基経は臣籍降下していた源定省を皇族に復帰させ、宇多天皇を誕生させました。

基経のおかげで天皇になれた宇多天皇は、基経を関白に任命します。関白という役職はこのとき初めて誕生したのでした。しかし、橘広相に起草させた勅命に「阿衡(関白の異称)に任じる」という言葉があったため、「阿衡」が実権のない名誉職だとして、この勅命の文章を不服とした基経は以降、一切の政務を放棄。国政は滞って混乱します(阿衡の紛議)。結局、この事件は、基経の権力を見せつけることになりました。

30歳になった宇多天皇は、寛平9年(897)、皇太子・敦仁親王を元服させて譲位します。この醍醐天皇の代初として「昌泰」と改元しました。

醍醐天皇を、左大臣の藤原時平と共に助けていたのが、右大臣の菅原道真です。道真はもともと宇多天皇の側近であり、宇多天皇は上皇となってからも、道真や源希、平季長といった自らの側近たちを、新天皇の周囲に置いて大きな影響力を誇っていました。