親と子が「バトる」のは健全な家庭の証拠
親の「過干渉」が原因で、親子の間でしばしば「バトル」が勃発することがある。ときには怒鳴り合いにまで発展し、壮絶な戦闘状態を繰り広げるのは、たいてい「母」と「娘」という「女同士」。父親は別室で寝たフリをしていることが多い。
わたしは最近、気づいたことがある。
母親と連日のように「バトる子」であればあるほど、学力、とりわけ文章読解能力がかなり高いのだ。たとえば、そういう子は語彙力が高く、「大人向け」に書かれた論理的文章などの理解能力に優れている。また、文中から解答の根拠に当たる部分をすばやく見つけることができる。論理的な思考能力が高いから、難解な算数の問題も粘り強く解くことができる。
「バトる」ということは、換言すれば、親と子がその場では「対等な関係性」を構築しているということなのだ。自身を論破しようとする親に対抗するためには、たとえ屁理屈になろうと、そこには理屈をつくる力が必要だ。
「お母さん、用意してって言ったノートが用意されていないじゃない!」
「そんなもの、自分で用意しなさいよ! 何を甘えたこといっているの? この子は」
「この前、お母さん何て言った? 親が準備しておくから、あなたはとにかく勉強しなさいよって……もう忘れたの? そうでなければ、何でそんな矛盾したこと言うの!?」
「うるさい! こっちが親切心を見せたと思ったら、何なのその生意気な態度は!?」
「だから、親切心どころか約束を守れないことに怒ってんじゃない!」
「何なの!? その上から目線は!」
「上から目線じゃないよ! そっちから約束破っておいて、何を逆切れしてんの!?」
「うるさい! うるさい! うるさい!!」
「あーもういいよ!」
たとえば、こんな具合。
果たして、能力が高いから親との「バトル」ができるのか、もしくは、親に対抗する中でそうした能力が培われるのか。わたしは指導経験から、後者のケースが多いと考えている。
親との「バトル」は一種のコミュニケーションだ。日頃から、親子で会話する機会がたくさんあることの証しでもある。だから、子は大人顔負けの語彙力や論理性を親との関わりの中で育んでいけるのだ。
子供のことが面倒くさい「ネオ・ネグレクト」な親の増加
その一方、子に対して徹底的に「無関心」な親がいる。
とある私立女子中高一貫校の教員と食事をしていたときに、彼は酔いにまかせてこんなことをつぶやいた。
「子どもを私立中学に入れたら、あとは学校に任せっぱなしという親が多いんだよね。高い学費を払っているんだから、ちゃんと見てくださいねと『ひとごと』のように考えているのかもしれない。ウチは託児所ではないんだけどな」
この点、思い当たる節はわたしにもある。
「高校受験、大学受験って『面倒くさい』じゃないですか。だったら、中学受験が『ラク』かなあって」
塾に問い合わせに来た際にそんなことを切り出す親がいる。「面倒くさい」と思うのは誰なのか? 「ラク」を求めるのは一体誰なのだろうか?
「ネグレクト」ということばがある。子を養育すべき者が衣服や食事などの世話を怠るような「育児放棄(養育放棄)」を意味する。
子に無関心な親でも、衣食住という面では子の世話をしている。しかし、子どもと関わるのが億劫で仕方がない。わたしはこういう親の姿勢を「ネオ・ネグレクト」と名付けている。