信長の死後、安土城はどうなったのか?

信長により、1576年から3年の歳月をかけて築かれた安土城(滋賀県近江八幡市)。本格的な天守の建造はこの城が最初とされ、内外を豪華絢爛な装飾で彩られたことから、天下の名城の名を頂いた城であった。

安土城がこれほど有名なのは、そのはかなさにもよる。というのも、安土城は本能寺の変以後、謎の出火により焼失し、現在は石垣しか遺されていないのだ。それが、後世の人々の想像をかき立てているのかもしれない。

だが、安土城は焼失後ただちに廃城となったわけではなく、その後も織田家の居城としての役目を果たしていた。実は、火災によって焼けたのは主に本丸で、二の丸は焼けずに残った。そのため、二の丸を中心に城としての機能は残っていたのだ。一般的に「安土城は焼失して廃城となった」と捉えられているが、そうではなかったのである。

だが1584年、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が、尾張国の小牧・長久手を中心に戦闘を繰り広げると織田家の情勢はひっぱく。安土城は居城としての機能を失っていく。

そして翌年の閏8月、秀吉が関白に就任して天下人となると、秀吉の甥・秀次が八幡山に城を築き、安土城の城下町は移されることとなった。またこのとき、城内の建築物の一部も移築されたという。これにより、安土城の城としての機能は息の根を止められたのである。

平成に入り、安土城は20年計画で発掘作業や整備事業が続けられてきたが、いまだその全貌は明らかにされていない。

千利休変身説も!? 明智光秀「その後」の謎

明智光秀の背後には「黒幕」がいたともいわれている

一般的に伝わる明智光秀の最期は、山崎の戦い(1582年)で秀吉軍に大敗を喫したのち、居城の坂本城へ向かう途中、小栗栖(現・京都市伏見区)の竹やぶで土民に襲われ致命傷を負い、自刃したとするものだが、この通説のほか、彼の後日談にはさまざまな謎が存在する。

有名なところでは、光秀が山崎の戦いのあとも生き延び、天海僧正ないし千利休に姿を変えたとする説。天海は江戸初期の天台宗の僧侶で、徳川家康の帰依を受けた人物だが、その前半生は未詳で、推測される生年が光秀と近いことからそのように語られるようになった。

また、光秀の位牌や木像などが納められているのは慈眼寺(京都市右京区)だが、天海の諡(死者に贈る名)こそ「慈眼大師」なのだ。前半生が詳らかでないにもかかわらず家康が帰依したことも、天海の正体が光秀だからこそつじつまが合うとされる。