彼女の「奇行」が週刊誌で報じられるようになる。生前、死んだらここへ入ると高倉がいっていた鎌倉霊園の墓地を更地にしてしまった。ここには結婚していた江利チエミがはらんだが、事情があって産めなかった水子墓もあった。

なぜ「高倉健」の痕跡を消し去ってしまうのか

クルマ好きで、多いときは20台ぐらい所有していたといわれる高級車も売り払い、手を入れれば立派に使えるクルーザーも解体してしまった。高倉との思い出が詰まっていたであろう世田谷区瀬田の家も壊して、新築した。

なぜ、そうまでして高倉健という俳優が生きた痕跡を消し去ってしまうのだろうか。ファンならずとも疑問を感じてしまうのは無理のないことであろう。

その謎に挑戦したノンフィクションが講談社から出版された。『高倉健 七つの顔を隠し続けた男』、書いたのはノンフィクション・ライターの森功である。

彼は高倉健が出た福岡県立東筑高校の後輩。高倉は高校でボクシング部と英会話のESSクラブも創設し、ESSは今も残っているという。

明治大学に入り相撲部に入部した。学生時代はけんかと酒に明け暮れ、「明治の小田(高倉の本名は小田剛一<おだたけいち>)」と恐れられた。酒癖が悪く、物を壊す癖があったと、自らインタビューに答えている。それもあって、俳優になったら酒は飲まないと決めたようだが、その克己心には頭が下がる。

大歌手・江利チエミとついに結婚するが……

この時期、戦後「銀座警察」と異名をとった、後の指定暴力団「住吉会」の幹部たちとの交友もあった。中でも明治の1年後輩で後に住吉の理事長にまでなる直井二郎とは親しかったそうだ。

大学を出ても就職口がなく1年就職浪人をしていたが、知人に美空ひばりの事務所を紹介された。東映本社の喫茶店にいる時、東映の重役にスカウトされたという話は有名だが、森によると、東映専務だったマキノ光雄(兄は映画監督のマキノ雅弘)だったという。

若いときからファンだった憧れの江利チエミと共演する機会を得て、結婚することになるのだが、美空ひばりや十朱幸代などからも愛を告白されたそうである。

大歌手・チエミを追いかけまわし、ついに1959年2月16日に結婚する。この日は高倉の誕生日でもあった。

徐々に売れ出した高倉にとって、一番幸せな時期であったのだろう。残念ながら子供はチエミの体の問題があり産めなかったが、彼女も精一杯高倉のことを愛した。だが、チエミが縁戚の女の詐欺にあい何億という借金を背負ってしまう。そこから結婚生活は暗転していく。