韓国の学生たちは、北朝鮮の朝鮮学生委員会と交渉し、南北学生会談を板門店で行うことを取り決めました。韓国政府はこれを了承しませんでしたが、学生たちは政府を無視しました。李承晩政権を四月革命で退陣に追い込んだ学生たちは、やや自信過剰に陥っていたのです。
この頃の韓国は、政治も経済もボロボロでした。他方、北朝鮮は統制が効き、ソ連の支援もあり、経済は比較的安定していました。このような状況で南北統一の交渉を進めれば、北朝鮮に主導権を握られた「赤化統一」の可能性が高くなります。いわば自国を北朝鮮に明け渡すようなものでしたが、韓国の学生運動家たちには、それがわからなかったのです。
こうして、板門店で南北学生会談が開催されることになり、「行こう!北へ!来たれ!南へ!会おう板門店で!」をスローガンに、学生たちが集まりました。ソウルを出発し、板門店へ向かった学生デモは10万人に達しました。一般国民もこれを熱狂的に支持し、すぐにでも南北統一が実現できるという、錯覚に基づく民衆感情が生まれました。
「同じ民族同士なのだから、話せば理解し合える」。こうした感情は、今日まで一貫して多くの韓国国民の中に地下水脈のようにヒタヒタと流れており、それがまさに「太陽政策」の原動力になっているのです。
民主的だが無力だったポスト李承晩政権
「話し合えばわかる」という無邪気な寛容さは、政治のリアリティーの中ではより深刻な事態を招くことがほとんどです。しかし、当時の張勉(チャン・ミョン)政権は、南北学生会談の危険性について批判的な論評をするのみで、これを取り締まることはしませんでした。李承晩後の民主化政権は、まったく無力でした。南北和解を訴える学生デモに加え、賃上げを要求する労働運動も激しさを増し、全国でストライキが多発、経済機能がマヒしていきます。1960年後半からはインフレが加速し、韓国経済は崩壊の危機にひんしていきます。