歌麿は石燕の庶子だったという説のソース

歌麿のデビューが『ちよのはる』だとすると、過去帳の没年から逆算すれば18歳。「少年」と呼ぶにはギリギリの年齢であり、特別に早熟というわけでもない。

この後、彼がどんな作品を描き、どんな生活を送っていたかは再び闇に包まれてしまう。だが安永4(1775)年の冬、歌麿は富本正本『四十八手恋所訳しじゅうはってこいのしょわけ』の上下2巻のうちの下巻の表紙を描いた。通説に従えば23歳、彼は北川豊章と落款している。この名は石燕の本名佐野豊房にちなむ。しかも石燕が「豊」の字を許したのは歌麿くらいしかおらず、そういう由縁が前出の庶子、養子説につながっている。

春画でも才能を発揮した歌麿の「新しい感覚」

2013年10月から翌年1月にかけて大英博物館が催した「大春画展」は9万人近い観覧者を集めた。展示された浮世絵のなかでも白眉と高い評判を得たのが他ならぬ歌麿の春画だ。