3年は自分の力でやると決意

本当はすぐにでも「行きたい」と思った。でも、これから始めると言って連絡をした人間がいきなり聞きにいくのは失礼だと思い直した。僕は、まず自分で3年はやろうと決意した。その上で教わりにいこうと。

その間、佐野実さんのブログで、支那そばやさんの製麺室で、佐野実さんがお弟子さん以外にも製麺を教えているところを見ていた。あの人もこの人も教わったんだ、と。僕も行きたかった。それでも我慢して、毎日のように製麺をした。

さらに旧・飯田商店の軒下でスープの試作も始めた。

ラーメンをちゃんとつくることのできる場所がほしいと思っていたら、もともと父が水産加工業をしていた旧・飯田商店をラーメン店に改装してくれる人が現れて、飯田商店を開くことができた。そのとき僕が店のために出したお金は2万円だった。ガキ大将ラーメンは、人に任せた。

「支那そばや」の佐野実さんへの憧れからスタートした飯田さんにとって、製麺はラーメンづくりの命ともいうべきもの。
写真撮影=合田昌弘
「支那そばや」の佐野実さんへの憧れからスタートした飯田さんにとって、製麺はラーメンづくりの命ともいうべきもの。

とうとう教われなかった…

そして、3年経った日にエヌアールフードの佐野しおりさんに電話をした。

「もしよかったら製麺を教えていただけないでしょうか」と頼んだら、「ちょっと体調が悪くて」と言われた。そのとき、佐野実さんは入退院を繰り返すようになっていたのだ。次も「ごめんなさい、今ちょっと難しいのよ」と言われた。

こうなるとビビってしまって、半年くらいは連絡できなくなる。それでまた電話をしたら「まだちょっと」というのが2〜3回続いて、そして亡くなられてしまった。11年前(2014年4月11日)のことだ。

佐野さんが亡くなられたと聞いたときは、涙が止まらなかった。先がなくなったような気がして、目の前が真っ暗になった。あのときはダメだった。エネルギーが切れたようだった。

しかし、泣きやんだあとに、これは佐野実さんが亡くなって悲しくて泣いているだけではなく、超わがままな自分のための涙だったと思い、反省もした。教われなかったことが悔しいという気持ちが自分の中にあることに気づいたから。