生まれた国によって人間の幸福度は決まるのか。フリーランスで国際協力に携わる原貫太さんは「発展途上国と、先進国、こうした二項対立で世界を切り分ける視点には懐疑的だ。ただ、あえて言うならば、私たちは快適で安全な暮らしと引き換えに、大きな代償を負っている」という――。

※本稿は、原貫太『世界は誰かの正義でできている』(KADOKAWA)の一部を抜粋、再編集したものです。

先進国と途上国の違い

私は、「先進国」と「発展途上国」という二項対立で世界を切り分ける視点に懐疑的だ。しかし、あえてその枠組みを使い、いわゆる「先進国」とされる日本と、いわゆる「発展途上国」とされるアフリカの多くの国々を比較すると、「標準化」の度合いに明確な違いが見えてくる。

サバンナのサファリカー
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近代化が進んだ国々では、社会の秩序と生産性向上のために標準化が徹底され、多くの人が共通のルールや基準に従うことを求められる。これにより混乱は少なくなり、効率的な社会運営が実現するだろう。

その一方で、「これが正しい」「こうすべきだ」という固定観念が生まれやすく、選択肢や自由な発想が制限されることがある。標準化が進んでいない社会では、その場の状況や人間関係を重視した柔軟な対応が求められることが多い。

例えば、ウガンダの市場では、価格が固定されているとは限らない。売り手と買い手が「1万シリングでどうだろうか」「いや、8000なら買うよ」と会話を重ねながら条件を探る。

このやり取りには、商品の需要や状態だけでなく、相手との関係性やその場の雰囲気までもが交渉の一部として影響を与えている。

「コンプライアンス」「ポリコレ」の代償

こうした柔軟な取引の文化は、標準化された社会では感じられない「揺らぎ」や「幅」を持っており、あらかじめ値段が決められ、交渉の余地がない日本のスーパーマーケットでは味わえない人間らしさがそこには漂っている。

ウガンダの市場でのやり取りは、標準化されたルールが支配する社会とは対照的だが、それは一例にすぎない。

標準化が進んでいない社会では、自由な発想や柔軟な対応が尊重される場面が多く存在し、それが結果的に、標準化された社会にはない豊かさや多様性を生み出している。

一方で、標準化が進んだ日本社会では、「こうあるべき」という価値観が強く根付いている。

近年では、多様性を尊重するはずの「ポリティカル・コレクトネス」すら、新たな「正しさの標準」として普及しつつあるように思う。

本来、「誰も傷つけない」という理念に基づいた取り組みであるはずが、「これが正しい多様性のあり方だ」という一律的な枠組みが形成され、かえって人々の考えや行動を窮屈にしている場面も見受けられる。