不景気の時代の「二分法」
鍵山さんの著作『凡事徹底』は1994年11月に刊行されていますが、同様の内容は1992年以来講演で幾度も話しているとのことで、掃除とビジネスとの出合いはより正確にはもう少し前だというべきかもしれません(『凡事徹底』のもとになった講演は、1993年5月と1994年2月に行われたものでした)。そもそも、松下さんの大正時代のエピソードや、3S(整理・整頓・清掃)や5S(3Sに清潔・躾が加わる)という言葉が当時既にあったことを考えると、日本企業の文化として掃除と修養とを結びつけようとする姿勢はもともとあったと考えるべきでしょう。ただ、それが活字になって大々的に主張されるようになるのは、1990年代前半まで待たねばならないのです。
ところで、なぜ1990年代前半だったのでしょうか。それは、既に浅野さん、上甲さんの著作でも一部紹介されていたことですが、鍵山さんの次のような主張から考えることができるのではないでしょうか。
不景気になると商品を安くしなければならない、新しい商品を売らなければならないと思う人が多いが、そうした商品を今までと同じ売り方、並べ方で売ろうとしても大した魅力は出ない。むしろ「いままであった商品を新しい売り方で」というほうが無駄がない。無駄をなくし、成果を上げるためには、手元にある商品の魅力や、どうしたら人に喜んでもらえるかに「気づく」ようになるというところにある。「微差、あるいは僅差」に気づき、それをおろそかにせず改善し、「徹底して平凡なことをきちっとやっていく」ことが、やがて「大差となって現れて」くるのだ(『凡事徹底』15-27p)。
不景気に関しては、次のような言及もあります。不景気になると合理化しようという考えが出てくる。これ自体は素晴らしいことだが、「自分の会社にとって不都合なことを他人や他者に転嫁することが合理化だと思っている経営者が非常に多く」いる。これは他人に対する思いやりが欠けたものであり、このような会社の社員は間違いなくすさんでいく。「思いやりのない集団になって、だんだん心がすさんでいく」。「会社で何が大事かというと、利益より社風をよくすることだと思います。社風が悪い会社で未来永劫よくなった会社はありません」(43-53p)。
自己啓発書には、しばしば「二分法」が登場するということを、これまでの連載で幾度か述べてきました。浅野さん、上甲さん、鍵山さんは、近年の啓発書ほどに明確な二分を行っているわけではありませんが、彼らは概して、次のような二分法で企業や人を切り分けているように思います。
つまり、一方には、凡事・雑事をおろそかにし、他人への思いやりに欠けた、金さえあれば何でもできると思っている者がいる。もう一方には、凡事をおろそかにせず、他人を喜ばせようとつねに考え、また他人に感謝する気持ちをつねに持ち、自分自身を高めようと思っている者がいる。上甲さんの著作ではバブル(崩壊)、鍵山さんの場合は不景気という表現が用いられていますが、これらはいずれも二分法を補強する背景論だといえます。バブルのときは前者でもよかったかもしれないが、それがはじけ不景気となった今、前者ではもうダメだぞ、これからは心を大事にしていかねばならないぞ、というわけです。
このような考え方は、この時期のベストセラーの内容にも通じるところがあると私は考えています。端的には1992年に刊行され、翌年のベストセラーに名を連ねた作家・中野孝次さんの『清貧の思想』に近しいと考えます。同書には次のようにあります。「一九八〇年代のいわゆるバブル経済の繁栄の中でそういう欲望(富貴への願望と所有への欲望:引用者注)の奴隷になった連中を多く見たばかりです」(141p)。このような観点から、鴨長明・西行・吉田兼好などの「心の世界を重んじる文化の伝統」(2p)を見つめなおそうとする著作が『清貧の思想』でした。空前の好景気とその終焉を経て、「お金ではなく、心なのだ」という考え方が多くの人に現実味のある考えとして受け止められるようになったこと。『清貧の思想』がベストセラーになったことと、鍵山さんの考えに注目が集まり、書籍として刊行されるようになったことは、このような共通の背景があるように思われます。
さて、鍵山さんの著作から、もう一つ言及を拾っておきたいと思います。1995年の『日々これ掃除』では、次のような言及があります。
「人間は誰でも理想と現実に大きな差がございますね。理想と現実が一致しているという人はいないわけで、必ず現実に対して理想は遥か高いところにあるわけですが、この理想に至るためにどうしたらいいかということがわからない方が大変多いわけです。掃除をしておりますと、理想にどうしたら近づくことができるかという方法が、じつに具体的に、よーく見えてくるような気がいたします。ですから、掃除は理想と現実を近づける大きな力を持っているんではないかと思います」(24p)
ここには「夢」という言葉こそ使われてはいませんが、理想を実現するための力が掃除にはあると述べられています。ここだけ読むと近年の著作と同様である気もするのですが、ここでは「頭だけで物事を考えて」いると、「頭の中の堂々めぐり」で終わりがちなので、「手を使って」掃除をしたほうが、「今まで思いもつかなかったこと」が浮かぶという説明が後に足されています(24-25p)。つまり、舛田光洋さんのように、掃除をすることで夢がかなう、という直線的な関係にはなっていないのです。掃除という無心に行う作業をすることで、理想を実現するためのアイデアが浮かぶかもしれないよ、という話なのです。つまりまだ、舛田さんの着想にまではたどり着いていないということができます。