定期刊行のガイドブック「吉原細見」による安定収入

この「吉原細見」による安定収入を元手に、蔦重は大手版元が立ち並ぶ日本橋通油町へ進出。さまざまな作家や絵師とタッグを組み、「黄表紙」「洒落本」「狂歌絵本」「錦絵」など、数々のヒット作を次々にプロデュースして時代の寵児となっていくのです。

「べらぼう」を見た多くの人が「蔦屋」と聞いてまず思い浮かべたのは、レンタルビデオショップとして一世を風靡したTSUTAYA、そして代官山をはじめ函館、湘南、梅田、枚方、広島、銀座など全国各地に展開する蔦屋書店ではないでしょうか。これらはカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)およびその関連会社によって運営されています。

新ポイントサービス「Vポイント」の会見。写真右が増田宗昭カルチュア・コンビニエンス・クラブ会長兼CEO、左は太田純三井住友フィナンシャルグループ社長兼グループCEO。2023年6月13日、東京都内
写真提供=日刊工業新聞/共同通信イメージズ
新ポイントサービス「Vポイント」の会見。写真右が増田宗昭カルチュア・コンビニエンス・クラブ会長兼CEO、左は太田純三井住友フィナンシャルグループ社長兼グループCEO。2023年6月13日、東京都内

蔦屋重三郎とTSUTAYAは関係あるのかないのか

まず事実をお伝えすると、蔦屋重三郎とCCCの間に血縁や事業継承などの直接的な関係はありません。また、創業時に蔦屋重三郎にあやかって名付けた名前でもありません。しかし、CCCの創業者である増田宗昭氏の歩みを振り返ると、蔦重を知らずにつけられた名前だとは思えないほど、多くのシンクロニシティがあることに驚かされます。

増田宗昭氏は1951年、大阪府枚方市に生まれました。同志社大学卒業後、アパレル会社「鈴屋」に入社し、軽井沢ベルコモンズ開発などのプロジェクトを担当します。その後退職し、1983年にTSUTAYA1号店となる「蔦屋書店枚方店」を創業。当時としては斬新だった、本・ビデオ・レコードを一つの店舗で扱うマルチパッケージストアとしてスタートしました。

では、なぜ増田氏は自身の店を「蔦屋」と名付けたのでしょうか?

実は、増田氏の祖父の家業の屋号が「蔦屋」だったのです。増田氏の祖父は「増田組」という建設業を営んでおり、近くの遊園地「ひらかたパーク」などの工事を請け負うのが主な業務でした。一方、副業として枚方の花街で「蔦屋」という置屋も営んでいたのです。

増田氏は新しい業態の店に名前をつける際、「マルチパッケージストア」といった説明的な名称よりも分かりやすい「書店」とすることがよいと考えました。その時、頭に浮かんだのが、とっくの昔に廃業していた祖父の屋号「蔦屋」です。「増田書店」より「蔦屋書店」とする方が歴史や文化を感じると考え名付けました。決して「祖父の家業を継いだ」というわけではなく、「蔦屋」という名前だけを借りたのです。

1号店を開業した当日、増田氏は友人から「こいつのこと知ってたか?」というFAXを受け取ります。それは広辞苑に載っていた「蔦屋」および「蔦屋重三郎」の項目のコピーでした。増田氏はこのとき初めて蔦重の存在を知りましたが、その後、「屋号は江戸の出版王・蔦屋重三郎にあやかった」と答えることが多くなったといいます。これは、祖父の置屋の屋号から取ったという説明よりも文化的な香りがすると考えたためです。また、祖父が蔦屋重三郎にあやかって「蔦屋」という屋号をつけた可能性もあると考えました。

北尾重政が描いた蔦屋重三郎。蔦唐丸(蔦屋重三郎)作、北尾重政画『身体開帳略縁起』、寛政9年(1797)
北尾重政が描いた蔦屋重三郎。蔦唐丸(蔦屋重三郎)作、北尾重政画『身体開帳略縁起』、寛政9年(1797)。 出典=国立国会図書館デジタルコレクション