人間関係も、仕事も、家庭も仮のもの

たとえば、同僚や上司との人間関係がうまくいかなければ、それは深刻な問題かもしれません。しかしそこを辞めれば、職場の人間とは一切の関係がとぎれます。

また、学校でどんないじめに遭っていたとしても、転校したり卒業したりすれば、いじめた相手とは縁が切れます。家族でさえ一緒にいるから「家族」なのであって、離婚したり、生まれてすぐ親子が離れ離れになったとしたら、赤の他人同士です。

たとえ、自分でその場所を選んだのだとしても、予想に反して「たまたま」つらい場所だったということはよくあります。それならば、別の場所を探してもいいし、もうしばらくその場所に居続けると決めてもいい。そこにいるかいないかは、自分自身で選べます。本当につらいのは、その選択の余地がないときです。

「自分の居場所がどこにもない」と言う人がいますが、居場所がなくて当たり前なのです。

すべては「仮の宿」であり、一時的な場所ですから。

いまの自分を受け入れる

どんな場所も人間関係も、「絶対」ではありません。そこに行けば一生安心と言える居場所など、この世にはあり得ません。

南直哉『新版 禅僧が教える心がラクになる生き方』(アスコム)
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もし「自分の居場所が欲しい」と思うのなら、自分で探すか、居場所を確保するために、ここと決めた場所が少しでも居心地がよくなるよう工夫するしかありません。

「いや、今いる場所で咲こうとするくらいの根性がなければダメだ」と言うのは、「今いる場所」や「自分」が、絶対的な存在だと勘違いしているだけです。

「誰か」の価値基準を無条件に受け入れて、そこで咲けるよう努力しろと言う。これは、仏教の立場ではかなりおかしな話なのです。

置かれた場所で咲かなくてもかまわない。

ただ、やり方によっては咲くこともある。その程度のスタンスで「置かれたところ」にいれば十分だと私は思います。

道路のそばのタンポポ
写真=iStock.com/Sakkawokkie
※写真はイメージです
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