「よりマシなほう」を選ぶ生き方
今、人生の問題を解決するとうたう本や情報は、世の中にあふれています。
しかし、人生は複雑なものです。人はそれぞれ環境も条件も違います。考える手間を省いて、出来合いのノウハウをあてはめようとしても、うまくいくはずがありません。即効性を期待して、インスタントにやろうとすればするほど、失敗します。
残念ながら、何十年もかけて自分の中で育ってきた問題が、一発で解決することなどあり得ないのです。
たとえば、坐禅体験を一度しただけで、悟りを開けると思う人はいないでしょう。プチな修行ではプチな結果しか得られないように、インスタントな解決を求めれば、それなりの成果しか出ないのは当然です。
それでも、どうにかしたい状況があるのなら、自分が「これは!」と思ったことを実際に試し、少しずつ修正していくしかありません。
それは面倒なことでしょう。ただし、手間と時間と根気をかける価値はあります。手間暇をかけたからといって、問題が解決するとは限りません。また、やり続けるにはストレスもかかります。
しかし、それでも続けていくうちに、問題をなんとかいなして感情をなだめ、「べき」を見つける道筋は見えてくるはずです。
問題や感情に振りまわされて、ストレスを感じるのか。
手間暇をかけることに、ストレスを感じるか。
生きていくうえで、どちらを選ぶのかという話です。
「損得」を棚上げにして、できることはやったのだという「納得」が得られるまで持ちこたえられれば、私は上出来だと思います。
「置かれた場所」で咲けなくていい
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉を初めて知ったとき、私は思わず笑ってしまいました。「幸運にも自分が置かれたい場所に置かれたのならともかく、誰かに一方的に置かれた場所でただ咲けとは、いったい何を言っているのだろう」と思ったのです。
その「置かれた場所」とは、「たまたま置かれた」にすぎない場所です。それを絶対的なものと捉えて、しかも「そこで咲け」と言うのですから、なんとも過酷な話です。
たとえどんなに理不尽で厳しい立場に置かれようが、それを受け入れ、我慢して自己実現に努力せよと言うのであれば、私から見れば差別的ですらあります。
また理屈を言うようですが、たとえば南北戦争前のアメリカでも、黒人は「置かれた場所」で咲かなければいけなかったのでしょうか。
ただ、このタイトルの本が大ヒットした理由はわかります。
このように言われたら、自分が苦しい立場に置かれていても、諦めがつくからです。
仏教では、すべての物事は、ひとつの条件によって成立している「仮のもの」だと考えます。人間関係も、仕事も、家庭も、常に一定の条件でしか成立しないあいまいなものです。
今、自分がどんな場所に置かれ、どんな状況にあろうと、それは一時的な状況だと捉えるのが、仏教の視点です。