「よりマシなほう」を選ぶ生き方

今、人生の問題を解決するとうたう本や情報は、世の中にあふれています。

しかし、人生は複雑なものです。人はそれぞれ環境も条件も違います。考える手間を省いて、出来合いのノウハウをあてはめようとしても、うまくいくはずがありません。即効性を期待して、インスタントにやろうとすればするほど、失敗します。

残念ながら、何十年もかけて自分の中で育ってきた問題が、一発で解決することなどあり得ないのです。

たとえば、坐禅体験を一度しただけで、悟りを開けると思う人はいないでしょう。プチな修行ではプチな結果しか得られないように、インスタントな解決を求めれば、それなりの成果しか出ないのは当然です。

それでも、どうにかしたい状況があるのなら、自分が「これは!」と思ったことを実際に試し、少しずつ修正していくしかありません。

それは面倒なことでしょう。ただし、手間と時間と根気をかける価値はあります。手間暇をかけたからといって、問題が解決するとは限りません。また、やり続けるにはストレスもかかります。

しかし、それでも続けていくうちに、問題をなんとかいなして感情をなだめ、「べき」を見つける道筋は見えてくるはずです。

問題や感情に振りまわされて、ストレスを感じるのか。
手間暇をかけることに、ストレスを感じるか。

生きていくうえで、どちらを選ぶのかという話です。

「損得」を棚上げにして、できることはやったのだという「納得」が得られるまで持ちこたえられれば、私は上出来だと思います。

香川県三豊市千所画浜市で撮影された禅僧
写真=iStock.com/SAND555
※写真はイメージです

「置かれた場所」で咲けなくていい

「置かれた場所で咲きなさい」という言葉を初めて知ったとき、私は思わず笑ってしまいました。「幸運にも自分が置かれたい場所に置かれたのならともかく、誰かに一方的に置かれた場所でただ咲けとは、いったい何を言っているのだろう」と思ったのです。

その「置かれた場所」とは、「たまたま置かれた」にすぎない場所です。それを絶対的なものと捉えて、しかも「そこで咲け」と言うのですから、なんとも過酷な話です。

たとえどんなに理不尽で厳しい立場に置かれようが、それを受け入れ、我慢して自己実現に努力せよと言うのであれば、私から見れば差別的ですらあります。

また理屈を言うようですが、たとえば南北戦争前のアメリカでも、黒人は「置かれた場所」で咲かなければいけなかったのでしょうか。

ただ、このタイトルの本が大ヒットした理由はわかります。

このように言われたら、自分が苦しい立場に置かれていても、諦めがつくからです。

仏教では、すべての物事は、ひとつの条件によって成立している「仮のもの」だと考えます。人間関係も、仕事も、家庭も、常に一定の条件でしか成立しないあいまいなものです。

今、自分がどんな場所に置かれ、どんな状況にあろうと、それは一時的な状況だと捉えるのが、仏教の視点です。