「定子の死」で頭を悩ませる道長

定子が皇子を産んだのを受け、道長は後宮における彰子の価値を維持するために、彰子の立后(正式に皇后にすること)を急ぎ、強引に「一帝二后」を実現させてしまう。

だが、長保2年(1000)2月10日、彰子が立后の準備をするために実家の土御門邸に下がると、翌日には早速、一条は定子を内裏に呼び寄せた。その結果、ふたたび妊娠したものの、これが命とりになる。定子は12月15日、第二皇女の媄子びしを出産したが、後産が下りず、翌朝に亡くなってしまう。

敦康親王はこうして生母を失い、叔父の伊周らもかつての地位になかったため、後見がない状況に置かれることになった。