一等地だからといって住みやすいとは限らない
資産価値という観点からすれば当然、住宅がどこに立地しているかということになる。では、世間でいう一等地は、本当に住みやすい街なのだろうか。
田園調布だけでなく、歴史的にブランド立地と言われている街は数多くある。その地に住むことは、富裕層としての称号をつかむことにもなり、プライドをくすぐられる快感はあるだろう。住む街を探す際に、資産価値が高いか、今後アップすると見込める立地に限定し、その中の一員になろうとする人も多いのが現実である。
だが、人にはそれぞれの生き方がある。山の手が好きな人もいれば下町が好きな人もいる。山が好き、海が好き、町中が好き、田園が好き、様々である。それらは世間が決め打ちするブランド立地と一致するわけではなく、むしろおよそかけ離れたものだ。
もちろん住宅を購入する際に、その資産価値に注目するのも大事なことだが、最も重視しなければならない視点はたったひとつ、その地域に住むことで自分がどのような「効用価値」を得られるかだ。ここで言う効用とは、必ずしも金銭的に測ることができない満足感やプラウドだ。
自分にとっての一等地を見つけることが重要
「Well-Being」という言葉がよく聞かれるようになった。Well(=良い)とBeing(=状態)を合わせた言葉だが、たとえばタワマンに住むことが外面的には「良い状態」だとしても、そこに住む人々の内面が「良い状態」であるかは別だ。
タワマンそのものが素晴らしい建物であっても、そこに住む人たちがタワマンの立っている土地を愛しているとは限らない。建物内でのいざこざを含め、毎日緊張しながら暮らしていたのでは、内面的に良い状態を保つことは難しいだろう。そんな状態にあっても資産価値を第一条件に、自らが住む住宅を選択することには何やら人生の余裕のなさを感じる。
肝に銘じるべきは、自分にとっての一等地はなんであるかということをよく認識することだ。そのためには、自分は人生に何を望み、どんな生活を送っていきたいのか。その活躍の土台となるのが家であり、地域であると考えることだ。
会社に近い、子どもの学校や保育園に近いといったことも重要だろうが、自分が住む街や地域を理解し、コミュニティの一員として穏やかな気持ちで生活できる場こそが、その人にとっての一等地なのではないだろうか。
そうした意味で、まだ多くの日本人は自己をよく分析、認識できていないように映る。資産価値という幻想で自らが毎日を過ごす住宅を選択し、その後の値上がりを願い、値下がりを嘆くことに、いったいどれだけの人生の価値が見出せるというのだろうか。
他人がどのように思おうが、自分にとっての一等地であれば、それが最もWell-Beingな選択なのである。