学歴に対して強いこだわりを持ち、学歴を他人の評価の基準にする「学歴厨」と呼ばれる人たちがいる。学歴研究家のじゅそうけんさんは「政治家にも学歴厨はいる。例えば、第78代内閣総理大臣をつとめた宮澤喜一さんは自身の経歴に並々ならぬプライドを持っていた」という――。(第1回)

※本稿は、じゅそうけん『受験天才列伝』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

東京大学安田講堂
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なぜ圧倒的な地位だった「東大文一」は衰退したのか

昭和(特に戦後〜バブル前夜あたり)の時代、圧倒的な地位を築いていた東京大学文科一類の入学難度についても詳しく見ていきましょう。

東京大学では、入学時から進学する学部が決められているわけではありません。文系・理系それぞれ3つずつ設けられた科類(文科一類・二類・三類、理科一類・二類・三類)に進学し、2年次まで教養科目を幅広くおさめたあと、3年次より希望の学部に進む(2年次までの成績で決まる)というやや特殊な方式をとっています。

とはいえ最初に入る科類によっておおよそ進学する学部は決まっているようなもので、文一は法学部、文二は経済学部、文三は文学部、理一は工学部、理二は農学部、理三は医学部にその多くが進学します。

当時の文系においては法学部が一番ブランドがあったため、法学部への門戸が広く設定された文一の地位も自ずと高くなっていたというわけです。

昭和後期には、文一と文二・文三との間には偏差値で言うと5〜10程度の差があったと言われ、文一は圧倒的な地位に君臨していました。東大の文系入試で最も合否を左右する科目である数学では毎年4問出題されるのですが、当時文三は一問完答、文二は二問完答、文一は三問完答する必要があると言われていたそうです。

この頃の予備校のデータを見てみると、当時の東大文一合格者の高2時点の文理共通の数学の問題での平均点は京大理学部合格者のそれを上回っていることが確認できます。文系でありながら東大京大(医学部除く)の理系をも凌駕する数学力まで兼ね備えていたのです。